麦茶を冷やす

 独り暮らしの男性らしからぬことに、私は普段の飲料として、麦茶を自分で煮出して冷蔵庫で冷やしたものを愛飲している。コンビニで二リットル入りのお茶を買っていると、お金がもったいないということもそうなのだが、部屋にペットボトルの空きがたまっていくのに往生するからだ。あれはかさばって、ゴミなので見栄えが良くない上に、私の住んでいる周辺ではペットボトル回収日は月に一日しかないのである。回収日の前の日、部屋で一人大量のペットボトルのラベルを取って、洗って、踏みつぶして、という作業をしていると、これなら麦茶を煮出して飲んだほうがナンボかマシや、と思ってしまう。

 自分で煮出すと言っても、タネは麦茶パックであるので、作り方はごく簡単である。水をヤカンにいっぱいに入れる。沸かす。麦茶のパックを入れる。もっと沸かす。空いたペットボトルに入れる。自然に冷やす。冷蔵庫に入れる。ずっと見ている必要はないので、洗濯や掃除など他の作業をしながらでもいいのが嬉しい。

 さて問題は、この「自然に冷やす」の部分である。これをやらないで熱い麦茶を直接冷蔵庫に入れると周りに入っているものが全部腐るということは経験済みなので(当たり前であるな)、一応常温になるまでは自然に冷まさなければならないわけだが、これに関して、わたしにはある思い出がある。

 かつて私が中学生だったとき。国語を教えていた先生が、授業中に私たちに問題を出した。麦茶を煮て、それを冷やす。夏なんかだとこれがなかなか冷えなくて困る。でも、冷蔵庫なんかを使わなくてもその時の気温よりもさらに冷やす方法があるのだが、それはなにか。

 国語の先生がこんな質問をするのだ、なにか国語に関する話題ではないかと読者諸兄は思われるかもしれない。たとえば「ワニが輪になる」と書いた紙をヤカンに貼っておくとあまりの寒さに麦茶も思わず冷却するとか(国語でもないか)。しかし、結果的にこれは科学的な、フェアな問題だった。一方の私は中学生のとき既に自然科学への道を志していた神童であったから、こういった問題には非常に敵愾心をあおられるものがあった。

 しかし、結局のところ私は神童でもなんでもなかったのだろう。与えられた時間はたちまち過ぎ去って、私にはなんのアイデアもなかった。どんなことをしてもせいぜい水道水の温度と平衡に達してそれで終わりであると思えてならない。級友達の「井戸水で冷やす」のような(これはまあ、ずるいのだけど)思いつきもなかったのだから、どう考えても中学生の私、大したことはなかったに違いない。

 先生が降参した私たちに教えてくれたアイデアとは、麦茶を煮たヤカンを濡れた布巾で包んで、風通しのいいところに置いておく、であった。これをやると布巾の表面から水が蒸発するときに気化熱を周囲から奪ってゆく。十分な水が供給され続け、また周囲の湿度が飽和に達しない程度に風が通っていれば、連続的に熱を奪われたヤカンはついに気温よりずっと下、熱力学の法則がしめすところの平衡状態まで冷えてゆくのだ。

 難しくて、中学生が思いつかなくてもしかたないように書いたが、そうでもない。基本的なアイデアは汗をかくとどうして体が冷えるのか、ということと同じである。最終的に気温よりも低い温度になりうるというのが意外かもしれないが、これは熱帯などで気温が体温を越えていても汗をかいて36度の体温を維持できること(もちろん汗を流し続けるというのはかなり体に負担を強いるので、日光下などで体を熱し続けると日射病になるのである)を考えれば簡単に理解できるだろう。要するに、そのころ持っていた知識だけで解けない問題ではなかったのだ。

 かくして、神童になりそこねた私は、麦茶を入れたペットボトルに濡らした布巾を巻くたびに、この国語の先生に喫した敗北のことを思い出すのだ。結局その程度だった自分の才能に苦笑しつつ、それでも科学者になりおおせてしまったのだから、私も大した心臓ではあるな、と考えながら。


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