頭痛もちの幸せ

 うむ、先日から頭が痛くてたまらない。実は私は頭痛もちなのである。ここ10年ほどか、月に一度か二度の割合で頭痛に見舞われるようになってしまった。今日も朝から非常に辛かったりするので、今回は頭痛もちでない人にもこの辛さをわかっていただけるよう、頭痛の話をしよう。ぜひ一緒に嫌な気分になって欲しい。

 頭痛になるときは決まってまず首筋から後頭部にかけてがシクシクと痛みはじめる。このノイズのような痛みが、ノイズ程度だから意識にのぼったりのぼらなかったりだが、半日くらい続く。気温が低くて、薄着をしているときに多いようだ。この段階で薬を飲んで寝てしまえば大丈夫ではないかと思うのだが、こう見えても一応まともに社会生活をしているので、そうも行かないことが多い。お前は運動しないからそうなるのだ、という友人の素敵な忠告に従って、この状態で軽い運動(五キロメートルくらい走るとか)をしてみたことがある。特に良くはならなかった。運動は関係ないようだ。

 その後、頭痛は後頭部から側頭部へと上ってくる。この状態では、じっとしていれば我慢できるが、ちょっとした運動、立ち上がったり歩いたり、という程度だが、そうすると耐えがたい位に痛みが増す。どういう機構か、血圧の上昇に伴って痛みが増すようになっているのだろう。心臓の鼓動に合わせて痛みが走る。こうなると、ほとんどなにをしても無駄である。肩をもみほぐしてもらうと少しましになるような気がするが、あいにくと独り暮らしではそのような贅沢に浸れることは滅多にない。椅子から立ち上がった私が、顔をしかめて「ぐわ、ぐわ、ぐわ」とか「いたいいたいいたいいたい」とつぶやいていたら、それは頭痛に耐えているのである。暖かく見守って欲しい。

 それでも何の手も打たずにいたり、そのまま眠ってしまったりすると病魔は第三段階に進行する。頭全体が、鼓動に合わせて常にゴンゴンと痛むのだ。これは寝ていようが、何をしようが常に痛い。動くとさらに痛く、もう本を読んだりテレビを見るのも苦痛である。ひたすら動きを最小限に抑えて、呼吸を浅くしつつ、通り過ぎるのを待つしかない。そんなにして代謝を押さえても痛いことは痛いので、非常に難儀する。そのうち吐き気までしてくる。もはや生ける屍である。私がうつぶせに寝転んで「ふわふわふわ」とか「うーうーうーうー」とか「ぐぐぐぐぐ」とかつぶやいていたらこの状態である。どうかそっとしておいてほしい。

 さらに、この状態が一晩くらい続くと、いよいよ第四段階である。いったい人間に痛みの限界というものはあるものか。傷とかだと、相当深い傷でも手当てをしてしまえば痛みは治まるものである。しかし、頭痛の場合、いつ絶えるともわからない痛みと常に一人で向き合っていなければならない。冷やそうと暖めようと、なにをしようと、ほんの少しも痛みが引かない、というのが堪えるのである。布団にくるまって「いたいいたいいたいって、頼むわホンマ」とか「ぐわわあうあうあうあう。たぁすけてクレー」とか大声で叫んでいたら、そろそろ自制が効かなくなっている。頭をブンブン振ったり、壁にガンガン頭をぶつけたり、コブシでボコボコ自分の頭を殴ったりし始める。われながらちょっと恐ろしいが、実話である。こうなったらもう駄目である。助けを要している。

 私が苦しんでいる姿を見た友人達に、医者にかかれ、と素敵なアドバイスをもらうことも多いのだが、実は既に何度か医者に見てもらってはいる。一度、五日間ずっとこの第三段階以上で推移したことがあって、このときはさすがに体のどこかが、どこかって多分脳だが、壊れかけているのだと思って医者に行った。診察の結果、薬をくれたが、ただの鎮痛薬でしかなかった。原因を治してはもらえないようなのである。頭骸骨に穴を開けて中身を掻い出すとか、いろいろあるだろうと思うのだが。その後も、定期健康診断のたびに、問診表の「たびたび頭痛がする」に丸をして出すのだが、なんかいつも適当にあしらわれている気がする。一ヶ月ずっと頭痛が続いている、というのでもないかぎり問題ないらしい。あなたはそういう人間なのです。いわば仕様です。あきらめてください。ロジックボードの交換が必要ですが、保証が切れています、でも可。

 といっても、月に二度も社会生活を営めない日があるのでは困るので、私もいろいろと自衛策はとってはいる。たとえば頭痛薬を備えて、いつも持ち歩いている。こういう鎮痛薬だが、できるだけ我慢して飲む回数を押さえないと、だんだん薬の効きが悪くなって、たくさん飲まなければ痛みがおさまらなくなったり、いざ手術というときに麻酔が効かなくなる、という。わざわざこういう素敵な情報をくれる友人もいる(だから俺は風邪を引いても薬など飲まんのだ、と言っていた。ムカつく)。痛みを抱えて生きてゆくことがどういうことかわかっておらんのだ。飢えに苦しむ人に、栄養のバランスとか、食べ過ぎの害について説くようなものである。我慢できたら私だって薬なんか飲むものか。

 むしろ、我慢するともっとひどくなる、ということが経験的にわかってくると、いまは大したことなくても痛み始めのうちにに薬に頼って解消してしまおう、という気分になるものである。転ばぬ先の杖。くしゃみ三回ルル参上。好き好んで痛い思いはしたくないのだ。人情としてそれが自然ではないか。幸い友人の素敵な未来予想図に反して、いまのところ薬が効きにくくなった、ということは無いようである。アセチルサリチル酸も、インドメタシンも、イブプロフェンもよく効く。そういえば、以前は薬を飲むと、今度は胃が荒れて次の一日悩まされる、ということが多かったのだが、こっちの方は常用しているうちにほとんど感じなくなったようだ。妙なものである。副作用だけが消えてゆくなんて。

 つまり、いまのところ頭痛薬さえあればなんとか頭痛に耐えて人並みに生きてゆけるのだ。まれに、どうしたことか全く効かないこともあるが、たいていは薬を飲んで二時間位すると嘘のように痛みが消える。痛みの原因はそのままに、痛みを感じる部分を麻痺させているだけだ、ということはわかっているのだが、こんなとき、痛みがなくて普通に寝起きできることがどんなに幸せか、ということを本当に実感する。長いトンネルを抜けた後だからこそ景色はいっそう素晴らしい。起き上がっても、テレビを見ても、本を読んでも、テレビゲームに興じても、おお、風呂に入っても洗濯物を畳んでも平気なのである。歌でも歌おう。ららら、頭痛持ちの幸せは、頭痛のあとにやってくる。ららら。

 そうならないでおこう、と努力はしているのだが、頭痛を抱えているときはなんだか人格までとげとげしくなり、面倒なことは全然しなくなる。面倒なこととは、布団の周りに散らかったゴミを片づけたり、という程度のことである。頭痛のさなかでは、これをまとめてゴミ箱に入れる、というそれだけのことができない。ところが頭痛が解消されると、親切でフレンドリィな性格になって、まめに掃除もするようになる。周辺の人には二重人格だと思われているのに違いないのだが、これはもう、自分で制御できるようなものではなくて、まったく生理的なものだ。残念ながら、人間の性格、少なくとも私の性格は、ちょっとした痛みひとつにいいように支配されてしまっている。

 あなたの身の回りで、性格悪いなあ、とか、あいつ面倒なことはぜんぜんしやがらんなあ、という人は、ひょっとして体のどこかに痛みを抱えているのかもしれない。どうか、理解と協力を。そして、痛みを持たない幸せな人には、せめてあなた自身の人生には、このような痛みが待ち受けていませんように。


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