おふくろの味

 いまやモーゼの十戒のようにして私に刻みこまれているダイエット十の誓いのひとつ「夜中九時以降は食べちゃダメ」によって最近の私は明け方いつも猛烈な空腹に見舞われている。起きあがるのもうっとうしいほどの空腹なのだが、それゆえ早く目が覚めて遅刻しにくくなったという利点もある。人間、腹一杯食べていてはダメなのかもしれない。
 こういう生活をしていると、面白いことに食べ物の夢を見ることが非常に多くなった。以前から、口のなかに怪我をすると必ずカレーの夢をみるというわけのわからない法則はあったが、最近になって立て続けに食事の夢をみて目が覚めるという体験が続いている。あるときはホテルのバイキング形式の朝食、あるときはコンビニの弁当、あるときはファミリーレストランのステーキ、はたまたテーブルいっぱいに並べられた居酒屋の料理など、毎日のように夢に見ている。ただ、こうして並べてみるとなにやらおふくろの味、という要素が抜けている。母親の作る食事は決して嫌いではなかったのだが、どうして夢に見ないのだろうか。

 母親の作る食事は嫌いではなかった、と書いた。もちろん母は健在であり、ときどき故郷に帰ったときはその手料理を食べることも多いので、過去形で語るのはおかしな話である。実は、母には申し訳ないのだが、あまり好きではなくなってしまったのだ。というのも、最近の料理に無闇と新しい食材を使うようになったからである。

 まず、モロヘイヤである。この、クレオパトラも食べていたという野菜は、この十年ほどの間に日本で一般的になった葉を食べる野菜である。かなりな栄養が含まれているらしく、一時は大きな話題になった。ほうれん草のような色と形をしており、料理法も栽培法もほとんど変わらない。唯一にして最大の違いは、これといった味が無く食感がやたらとねっとりしている、ということである。
 つぎに、オクラだ。私の記憶によればこれはもともと関西にはなかった野菜である。最近、ほんの二年ほどの間に、私の家でも栽培するようになった。なにやら栄養が含まれているらしい。話題になったかどうかはわからないが、細いピーマンか、太いトウガラシのような形をしており、料理法も栽培法もあまり変わらない。唯一にして最大の違いは、これといった味が無く食感がやたらねっとりしている、ということである。

 要するに、いつのまにか、私の実家の家庭料理は、ねっとりねばねばしたものになってしまったのである。ねっとりしているだけならいいが、これらの粘液にはなにか調味料の侵入を妨げる要素があるのだろう。これらに出会うたびに「味の空白」に悩まなくてはならない。
 たとえば、ほうれん草のお浸しだと思って食べる。ねっとりしている。モロヘイヤである。醤油や砂糖(うちではそうしたものを使う)で十分味がつけられているにも関わらず、口に入れるとすぐねとねとでいっぱいになる。もはや味などしない。
 またあるときシチューを食べているとする。中に入っている具、じゃがいも、肉、人参、これらはみなシチューの味が付いている、と、突然オクラに出会う。口の中から一瞬にしてシチューの味が消える。ねっとり感だけが残る。

 たまりかねて私は母に言った。
「こんなものをいれるのは止そうよ。ちっとも旨くないよ」
「あら、栄養があるのよ。その昔、クレオパトラが」
 クレオパトラに栄養の知識があったとは思えぬ。彼女も、他に旨い野菜があることを知っていたらそれを食べたろう。こんなねとねとに我慢せず。
「それはもういいよ。だいたい日本人はこんなものがなくってもこの二千年以上元気にやってきたじゃないか。いまさら変な栄養素を補ってもしょうがないよ」
 ちょっといいところをついたようだが、いきなり泣き落としに出た。
「ああ、たまにかえってきた息子の健康をおもんぱかって精いっぱいの栄養料理でもてなそうとしているのに、おまえという息子はなんという親不孝なことをいうの。おろおろ」
 だまされてはいけない。どうせ「みのもんた」かなにかから仕入れた知識に過ぎないのである。なにしろ、嬉々としてヨーグルトきのこの栽培をしていた人なのだ。最近はシソジュースなるものを勧められた。
「とにかく」わたしはきっぱりと言う。「大人だから別に残すとか言うことはなく食べるけれども、不快に思っている、ということだけは伝えておくよ」
「承りました。それは結構。でも食べさせますからね」
 というわけで私は家庭料理のなつかしい味にありつくこともなく、帰郷の度にねとねと感と戦っている。早く結婚したい。


トップページへ
▽前を読む][研究内容一覧へ][△次を読む