アイ御中

 恐怖心というのは、特に幼い子供にとっては、たった一つの言葉のような本当にささいな出来事によっても植え付けられることがある。私に関して言えば、農村の出身でありながら恥ずかしい話で、今なお「尺取り虫」「毛虫」などの「芋虫」系の昆虫に対して、理不尽かつ強烈な恐怖心を抱いているが、これはほんの一言の理由のない発言が発端になったものだ。私がどんなにこれら長虫が嫌いかというと、手のひらに載せるとか、頭の上に落ちてくるとか、そういう想像をするだけで総毛立つほどである。本当はタイプするのも嫌だ。ごく幼いころはなんとも思っていなかったのに、あるとき突然恐怖の対象になったのだが、恐怖心だけでなく、どうしてそうなったのかまでが記憶に残っているから妙なものである。
 その一言とは、「尺取り虫に体を這われると『尺を取られる』」というものである。私はこれをある友人から聞いたのだが、当時の私のショックと言ったらなかった。うわわ、無害そうに見えたが尺を取られてしまうのか。これはかなわん、と小学生だった私の心に焼き付いてしまったのだろう、それから病的に芋虫の類を恐れるようになった。尺を取られるってなんだ、尺を取られたらどうなると思ったのだ、と当然あなたは疑問に思われるだろうが、説明することはできない。自分でもなぜだかわからないまま、とにかく不吉さだけを感じ取ったのだ。それにしても、これだけ理由がわかっていて、というよりも理由がないことがわかっていて、まだ怖いのはどうしたわけか。

 理不尽な恐怖、ということで言えば、以前、箸とご飯に関するタブーをテーマに書いたことがあるが、そういった習慣が身に付くか否かについては、やはり両親がどの程度そういった決まりを重視しているかが大きいのではないかと思う。怪しげな出所から聞いた話だが、子供が雷を恐れるかどうかは、親がやはり雷を恐れるかどうかに関連しているのだそうである。雷というのは、ごくまれに大きな被害をもたらすこともあるものの、大抵は激しい光と音を伴うだけの、実害の少ない自然現象である。それを恐れるようになるというのは決して本能などによるものではなく、稀な現象に当たって頼るべき親がなお怖がっているということ、つまり親の恐怖そのものに対して子供が恐怖を感じてしまうというのだ。一方、雷をなんとも思わない親の元で育った子供はまた雷が平気になるわけである。私は自分に子供ができたら、あらゆる物事に対してあえて豪胆にふるまい、恐怖心とは無縁の無敵の子供を育てようと思っている。そうして育てた子供に、自分の代わりに時ならぬ侵入ゴキブリなどを退治してもらおうというのである。もっとも、体に芋虫を這わせるということだけはできそうにないので、失敗に終わるかもしれない。

 まあ、幼児体験はかように人間を規定してしまうということなのだろう。かの時期に母親が私に教えたことは善かれ悪しかれさまざまあるが、例えば先ほど挙げた箸とご飯をはじめ、「霊柩車を見たら親指を中に拳を握り込まなければならぬ」「墓地を指さしてはならぬ」「北枕にして寝てはならぬ」などの数多くの無意味なタブーが、それほど強烈ではないにせよ、私を支配していることは否めない。しかし、鋏を他人に渡すときは刃の方を持って、相手に把手のほうが来るようにして渡すのだ、というようなことは、実際に人を傷つけないという意味があるわけだし、こうしたタブーの一つとして教えられ、今も習慣として色濃く私に染みついている有益な決まりの一つであるといってもいい。

 さてそういったことの一つとして、往復葉書や、返信用封筒を同封する場合などで自分の名前を書く場合、必ず最後に「行」とつけておく、というのがある。一般的な習慣であり、自分を貶めることによって相手を持ち上げる「謙譲」ということになるが、少なくとも小学生の私にとって、この習慣はそれが礼儀であるから、というよりも、親にそうするべきものであると教わったから、というところが大きかった。
 余談であるが、初めてこれをやって、帰ってきた封筒の表書きが「行」を消して「様」に書き直してあったのを見たときのことだ。おかしなもので、私は、相手の名前には「様」または「御中」、自分の名前には「行」をつけておくということを教わっておきながら、返信を出すときには「行」を消して「様」に書き直すのだ、ということを知らなかったらしい。これは間違っているから直されたのだと思い込み、その後激しい自己嫌悪に陥った。最初からそこまで教えていてくれればよかったのに。

 高校生の時、私は悪友にそそのかされてある悪事に手を染めかけた。雑誌などによく挟み込まれている「あなたにピッタリの彼女を紹介いたします」という葉書を、友人の名前を騙って出してみようというものである。陰険である。良い子は真似をしてはいかん。どうしてそんなことをしようと思ったのかはわからない。多分、それでテストを行って、上手く行ったようだったら自分も出してみよう、とでもその悪友が思ったのかもしれない。しかし、この計画は志半ばで私の愚かさによってとん挫することになった。
 葉書の項目を埋める作業を私が担当したのだが、普通に書いたのではつまらないと思った私は、わざと変態っぽく質問に答えていったのである。最終的には実にねちゃっとした感じの架空の人格がアンケート上に表現されることになった。横で見ていた友人にとってみれば、最初のもくろみが微妙に外れた方向にゆくのを見て気が気ではなかったことだろう。そして、最後に私は、なんとも思わずに宛先の「行」を「御中」に書き直した。
「おい、どうして『御中』って書くんだよ」
 と、友人が言った。
「へ、礼儀じゃないか。『御中』って書き直すのは」
 私はきょとんとして聞き返す。物知らずとは思っていたが、まさかこいつ、こんなことも知らないのか。
「馬鹿じゃないか。こんなのは『御中』なんて書かなくっていいんだ。それに字、間違ってるぞ」
 そう。御中の「御」の字の一番右のパーツが「おおざと」になっていたのである。「部」の右側である。本当は「叩」の右半分のようでなければならないのに、私はその時までこの両者を区別していなかったのだ。
「あああ、これじゃ出せないな。馬鹿」
 散々無茶な回答でアンケートを埋めておきながら、これしきのミスでそんなに馬鹿馬鹿と言わないでもいいと思うが、その一言でこの葉書は廃棄処分、計画は延期になった。一時記憶領域の小さい馬鹿な高校生のこと、そのままこの計画は二度と日の目を見ることはなかったのだが、本当にやらなくて良かったと思う。私の漢字のおかげで命拾いをしたと思いたまえ、M君。

 しかし、その悪友の言葉、「御中」に直さなくてもいい、というのはどういうことだろうか。確かに儀礼的な意味の全くないアンケートをどう宛名書きしようと関係ないような気はする。私は直しても悪いことはないし、何となくそうしなければと思ってしまうのだが、「御中」と書き直すことについてのタブー的な圧力が、私とその友人とでは違っているということだったのかもしれない。雷を恐れる親と、そうでない親の元に育った子供たちのように。

 まあ「行」を「御中」に直すというような礼儀はまったく形骸化していて、こんなことにこだわるのがおかしい程ではある。たとえば、先日ある業者が同封してきた返信用封筒の表書きが、最初から「御中」になっていたりした。はじめ私はそれに気づかず、「御中」を二本線で消してまた「御中」と書きそうになったのだが、「ぎょうにんべん」まで書いたところで初めてそれに気がついたのである。私としてはやはり、なんと無礼なと思わずにいられなかった。せっかく書いた「彳」を消すのも業腹なので、そのまま堂々と「御中」と書いて出したのだが、どういうつもりで自分で「御中」なのだろうか。宛名に関する社会的圧力がもはやほとんどないに等しいという証拠だろう。

 そう言えば、たとえば「隆行(たかゆき)」という人がいるとして、彼がこのルールを無視して返信用封筒を製作した場合、「行」を消して「隆(たかし)様」と書かれてしまう、ということはないのだろうか。あるいは本当に「隆」さんであるかもしれないので、この問題は根が深い。幸い、私はまだ見知らぬ「隆行」さんないし「隆」さんからの往復葉書を受け取ったことはないので、この悩みはいまのところ杞憂に終わっている。


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