ゲオルグに捧ぐ

 われわれが毎日使っている言葉ではあるが、日本語とは本当に難しい。ある日のことである。私の父がマックに向かって、なにやら作業をしていた。もう六十になろうかというひとなのだが、なかなか器用で、手習いで覚えたワープロなどの機器も自在に使いこなすようになっている。ワープロは長らくシャープの専用機を使っていたのだが、このたびマックを買ってそちらに移行することになった。
「おい、このワープロ、固有名詞は変換せえへんな」
 その父が、寝ころんで本を読んでいた私に言った。私は起き上がって、画面をのぞき込む。
「んん。入ってない言葉はしょうがないから。どんな言葉」
「兵庫県、って入れても変換しよらへんねや」
「え、そんな馬鹿な。やってみてよ」
「表合憲、ほらな」
 私はひと呼吸置くと、叫んだ。
「『ひょうごうけん』、って入れとるからやぁっ」

 どうも、以前のワープロには「ひょうごうけん」で辞書登録していたらしい。この年まで「ひょうごうけん」だと思っていたなんてことがあっていいものだろうか。確かにアクセントの置きようで「ひょうごうけん」に近い発音になるのだが、あんまりである。それもこれも、漢字などというキーボードから入力しようのない言葉を使っている我々だからこそなのだろう。たとえばアメリカの六十歳の親父は、こんなことで悩みようがない。

 話は変わる。もう十五年くらい前にある本で読んだ話だが、ある英語圏の人が、自分の著書をドイツ語に翻訳してもらった。そのドイツ語版の本の献辞に、翻訳者に向けて、
「この本の翻訳は、ゲオルグ・ノルトマン博士によるものであります。彼に感謝いたします」
 と書いた。その下に、
「上の献辞の翻訳は、ゲオルグ・ノルトマン博士によるものであります。彼に感謝いたします」
 と書いた。著者はドイツ語は全くの門外漢で、ただの一文もドイツ語の文章を書くことができなかったのである。というわけで、さらにその下には、
「上の献辞の翻訳は、ゲオルグ・ノルトマン博士によるものであります。彼に感謝いたします」
 と書かなければならなかった。このまま無限ループに突入するかといえば、さにあらず、ここで献辞は終わっていた。なぜだろうか。

 それは、ドイツ語が全くわからない著者でも、ドイツ語の文章を書き写すことくらいはできたから、である。しかし、これはドイツ語と英語が、基本的に同じ字母を用いて記述される言語だったからこその話であって、もしドイツ語訳ではなく日本語訳であったりしたら、英語圏の筆者が日本語をこうも簡単に書き写すことができるかどうか疑わしい。海外の看板のむちゃな日本語の写真などを目にしたことがある方も多いと思うが、「レ」と「し」、「ニ」と「こ」など、確かに間違っても仕方がないような気がする。特に漢数字の「二」とカタカナの「ニ」など、ウェブ上でも(日本人なのに)間違っている人が多かったりしてびっくりする。ユニコードでは一緒にされてしまったりして。そういえば、私の小学生の時のクラスメートに「キヨレ」というあだ名の子がいた。本当は「きよし」なのだが、彼の字があまりに汚いため、どうしても「きよレ」と読めてしまう、というのが由来だ。うまいあだ名である。

 余談さておき、日本語は字母がローマ字でない上に、漢字があることが言葉をいっそう難しくしている、という話である。外国に旅行したことのある方ならたいていはクレジットカードを持って行かれたことと思うが、クレジットカードの裏側には自分の名前を書くところがある。この背面のサイン、何も考えないで漢字で署名している人が多いと思う。私もそうしている。ところが、外国(といっても中国や韓国、台湾は話が別だと思うが)を訪れた場合、かなりの確率で漢字のサインに嫌な顔をされてしまうのだ。外国人のサインの例を見ていると、崩しに崩した揚げ句ほとんど何とも読みようがないものが多い。まあ、あれは読める必要はなくって、その人しか書けないような形になっていればそれでいいのである。サインの効用がそういうことなら、サインが漢字でもその形がカードの裏と同じであることがわかればいいではないかと思うのだが、また、むしろ、漢字ならたとえカードを落としてもその辺りの人には筆跡を真似しにくくて安全ではないかと思ったりするのだが、カードの裏と違ってもいいからローマ字でサインしてくれなどと言われてしまうことさえあるのだ。

 他にも例えば、どこかの会場への案内図なんかを書いて外国人に渡すとして、道しるべに「新道坂上」と書いてある信号を右折して下さい、と書きたくなる。「新道坂上」が読めないとしても、メモの文字と比べてみて、同じであることくらいはわかるのではないかと思うからである。しかし、これは漢字に慣れない人にとってはとても難しい作業であるらしい。多くの場合、非常に時間をかけなければ文字が同じであることを確認できないのだ。

 考えてみれば、私たちだってアラビア語やキリル文字なんかの文章を見て覚えておくことは非常に難しい。それだけではない。中国や韓国、台湾といった地域の、「普段使っている漢字に似ているが、よく見ると違う文字」については、特に日本の漢字には使われていないパーツが入っていたりすると、形を覚えておいてあとで書くことが非常に難しいものである。たとえば、これは日本語の漢字だが、新潟の潟という字の右半分(つくり)は、他で使われることがとても少ないので、初めて書くときには大変苦労する。私など今でも潟という字を書くと妙にデカくなってしまうのだが、みなさんはどうだろうか。ともかく、こういったことは、私たちが、普段漢字を、単純ないくつかのパーツに分けて認識するからこそ読めているのだ、ということの、一つの証拠ではないだろうか。

 かつて、教養として漢詩の素養を持っていた江戸期の武士は、筆談ならなんの苦労もなく中国人と意思の疎通ができたという。現在でもほぼその状況は変わっておらず、中国語で書かれた看板や文章の意味がなんとなくわかるのは面白いものである。そういえば、ご存じの通り、中国本土では簡体字という、漢字の一部を省略して簡単にした文字体系を使っており、一方、台湾ではほぼそのままの漢字、繁体字が使われている。マックの「チャイニーズランゲージキット」なる、中国語拡張システムを買うと、この両方をコンピューターにインストールすることができる。私の知り合いの中国人がこれを使っているのだが、あるとき見せてもらったら、繁体字と簡体字の2つのインプットメソッド入れて使用している。母国語である簡体字はわかるが、どうして繁体字が必要なのか質問したところ、「簡体字ってなんかかっこわるい」とのことであった。気持ちはわからないでもないが、その発言、政治的に問題ではないのか。

 それにしても、私の使っているインプットメソッドでは「簡体字」は変換しても「繁体字」は変換しないのだが、これで本当に合っているのだろうか。「ひょうごうけん」と同じ間違いをしているのではないかと戦々恐々としながら、公開してしまう私なのだった。


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