運命論者への不十分な反駁

 今回はちょっと堅い話をしてしまう。未来は一本の筋道だろうか。私たちはあらかじめ決められた運命に沿って日々暮らしているだけなのだろうか。そういった疑問を持ったことがおありだろうか。

 もちろん自由意志というものがある。運命というものがあらかじめ定められたものとしてそこにあったとしても、それを知らないでいるならば無いのと同じことだ、自分の好きなように生きてゆける。そう反論してこの疑問を終わりにしてしまう人もいるだろう。しかし、ちょっと待って欲しい。そうとばかりは言えないのだ。ここに、「ラプラスの悪魔」というたとえ話がある。

 世の中のものは、すべて原子からなっている。その原子は、ぶつかり合ってさまざまな反応を起こす。こうした反応が積み重なって、この世界におけるいろいろな現象となっているのである。そして、その反応の法則は一応わかっている。ビリヤードの玉の跳ね返る方向が、実際に衝突する前にわかるのと同じである。ただ、とてつもなく数が多いものだから、全体として将来の状態が予測できないだけである。非常に複雑な、たとえば人間の頭脳も原子でできていることには変りはないので、計算が複雑になるだけで別に新しい法則が必要になるわけではない。

 いまここに、仮想的な存在を考える。彼、「ラプラスの悪魔」は、その与えれた能力によって、ある瞬間のすべての原子の位置と状態、速度などを測定することが可能である。また、彼は無限の演算能力を持ち、今後その原子がそれぞれどの原子と衝突し、その結果どうなるかを漏れなく計算可能である。

 この悪魔は確実な未来を予測しえるのだろうか。私たちにとって現在そのような方法での予測ができないのは、まだ我々の測定/演算能力が低いからであり、そのうちには可能になるのだろうか。ちょうど、ビリヤード台の上の玉の未来位置を予測できるように。超越的存在にとって、未来は自明な一本の道だけなのだろうか。

 この問題に対する回答は、長い間「その通りである」であった。そうではない、ということがわかってきたのは今世紀初めのことである。

 「不確定性原理」という新たな概念の導入である。これは、扱う物事が小さくなってゆくと、その測定にある限界が生じることを述べている。これは例えばこういうことである。いま、非常に小さいある粒子がある。この位置と移動方向・速度を測定すればこれでこの粒子のすべてがわかったことになるが、これはどこまで正確に測定できるだろうか。測定機器さえしっかりしていればどこまでも正確に測定できる、というのが「不確定性原理」以前の認識であった。ところが、この世の中はそのようにはできていないのである。
 非常にディープな部分の議論になるので、これ以上の説明はしないで置かせてもらうが、とりあえず、原子以下のレベルでは物事は凄くあいまいになってしまって、到底「ラプラスの悪魔」が活躍できなくなってしまうのである。彼の能力であった、完全な測定ということ自体が不可能なのだ。

 しかし、考えてみれば、この「不確定性原理」が効いてくる大きさは非常に小さい領域に限られる。普段暮らしている限りこの不確定性原理が世の中に及ぼす「予測不可能性」はごくわずかなもので、ほとんどの物事が古きよき古典物理学にそって流れているといって過言ではない。

 ちょっと別の方向からこの現象を見てみることにしよう。タイムマシンで過去に行く。足下の小石を何気なく蹴飛ばして帰ってくる。その小石に、そこを通りかかった妊婦がつまずいて転び、それがもとで流産してしまう。生まれるはずだった子供は、実はその後政治家になり、ある戦争の引き金を引くことになっていた(端的には、その妊婦はヒトラーの祖先だったのだ)。つまり、小石がもとで世界の歴史は大きく変わってしまう。

 そうなれば面白いが、この話はあまりにもご都合主義だと思わないだろうか。小石がもとで戦争が起こらなかったりすることは確かにありうるが、なんの変りもなく世界が続いていく方が多いのではないか。あるSFに、恐竜時代の蝶をあやまって踏み殺したタイムトラベラーが戻ってきてみると壁に貼られた注意書きのスペルがめちゃくちゃに変わってしまっている、というものがあった。しかしこれは、どういう「風が吹けば桶屋がもうかる」の結果そうなったのだろうと考えるとなかなか難しい。蝶が一匹どうなろうと、または石ころの位置が少し変わったところで、たいていの場合は世界の歴史は微動だにしない、そんな気がする。

 そして、不確定性原理に話はもどるが、この不確定性によってあいまいになるのは石ころよりももっともっと小さな、原子レベルの話になってしまうのである。原子どうしが衝突して、右に行こうと左に行こうと、どうということは無いのではないだろうか。ここで注意しておかなければならないのは、たくさん原子を持ってくると、全体として何パーセントが右に行って、何パーセントが左に行くか、ということは完全に予測可能だということである。粒子の数をたくさんにしていけば、ますます確かになってゆく。不確定性原理があるからといって、突然粒子が予測不可能な動きをするわけではないのだ。

 つまり、たいていの人にとって、不確定性原理は運命論を否定する根拠となりえない。未来は一本道なのだ。ほとんど。

 あるとき、私は学会か国際会議かで、新しい原子核を発見した、という発表を聞いた。原子核同士をぶつけると、実にいろいろな原子核ができる。それを篩いにかけて、陽子の数、中性子の数で原子核を並べ直すと、今まで知られていなかった原子核が見つかった、とするものである。三日ほど実験を続けて、五〇個ほど見つかった原子核、一〇個ほど見つかった原子核、三個ほど見つかった原子核が図に並べられていた。それを見て、聴衆から出た質問がこれである。「何個観測された原子核を『見つかった』とするのか」発表者による回答は、三個くらいですかねえ、というようなものではなかったかと思う。三個のこの原子核が生成されるかどうかは、さすがに不確定性原理が効いてくる。できたかもしれないし、できなかったかもしれない。それはどんなに初期条件の原子核の位置と速度を精密に測定してもわからないのだ。
 そして、新しい原子核が観測されるかどうかが、この人の人生の今後に(特に新たな職を探したり、甚だしいときには何かの賞を受けたりすると)大きく影響する。少なくともこの人の人生は、不確定性原理の不確定性の影響をもろに受けているといえるだろう。彼の人生は、立派に予測不可能である。

 さてそれが、世界の歴史にどう影響するかというと、やっぱり小さなものでしかないのだけれど。


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