スキャナーに生きがいはないかもしれん

 残業もせずに今さっきアパートに帰ってきたところだが、またもあの少年に「こんにちは」と挨拶をされてしまった。アパートの階段を登ろうとしていたら、遠くから大声で「こんにちわー」と声がかかったのだ。実は一度無言ですれ違ったので、先に挨拶しなかったことを責められているのかもしれない。ごめん、少年。ちゃんと「こんにちは」と微笑んで挨拶を返しておいたが、またも彼の教育に悪影響を与えたのではないか、近所の何やってんだか分からないお兄ちゃんには挨拶をしなくていいという結論を彼がだしてしまわないかと心配でしょうがない。その結論は正しいかもしれないが、まっすぐ育ってくれ。田上竜平君(仮名)。

 某パソコンショップにスキャナーを買いに行った。以前所属していた研究室で購入したときにあちこちに見積もりをとった経験から、十数万は下らない、というイメージがあったのだが、いつの間にかこの分野が過当競争になっていて、値段がガタ落ちしていたらしい。台湾のなんとかいうメーカーの300dpiのA4スキャナーなのだが、これが1万円で買えるのだから恐ろしい。
 私はこれを父へのプレゼントにしようと思って買いに行ったのだが、予算を3万円くらいと見積もっていたので値札を見て思わず笑ってしまった。これなら自分用に一台買ってもいいくらいである。さすがにその場でそこまでは踏み切れなかったが、私が次に買う予定の、なんともう予定とまで言っているわけだが、新PowerMacG3にSCSI端子が無いということを聞き、慌てて買わなくて良かったと胸をなで下ろしているところである。

 さて、そのショップにはiMacも展示されていた。そのころにショップにあったのは今や旧型となってしまったボンダイブルーのやつだが、その隣にiMac用として同じカラーリングのスキャナーが置いてあったのには目を引かれた。半透明素材で作られており、iMacにはUSBで接続するというものである。スキャナーとデジタルカメラだけは透明ではまずいような気がする周辺機器であるが、大事なところは光を通さない素材でできているのでかまわないのだろう。
 ここまできたら、日常のあらゆるものをトランスルーセントにしてほしいものである。電話やテレビ、ビデオなどのAV機器から、洗濯機掃除機冷蔵庫エアコン電子レンジ炊飯ジャー食器洗い機まで、全部透明にしたらなかなかいいのではないかと思うのである。ブームが続けばそこまで実際にいくかもしれない。透明な家庭用ゲーム機なんていまにも発売されそうである。ドリームキャストなんてどうか。セガだし、やるかもしれない。

 スケルトンといえば、私の弟はある樹脂会社で研究者をしているのだが、私は常々このスケルトンブームに乗っかって、透明の基盤を作ったらどうかと進言している。ハンダ付けや配線の都合があるから全部が透明とはいかないとは思うが、なかなか需要は大きいのではないだろうか。と提案したら弟は何ともいえない渋い顔をしていたので、簡単には出来ないのだと思う。でも、どうでしょうか。某樹脂会社の弟の上司の人。実現が少しくらい難しくっても弟をこき使ってやったらいいですから。アイデア料は透明なパソコン一台でいいです。

 話を戻す。家に戻った私はスキャナー様をいそいそと箱から出し、ほくほくと接続してみた。ふにふにと顔がほころぶ。いい買い物をしたという気持ちでいっぱいである。さてテストをしてみなくてはならないが、最初にやってみるのはやはりお札のスキャンである。これは多分犯罪にあたるのではないかと思うのだが、ついやってしまうのである。1万円札をスキャンすれば、いろいろと楽しいではないか。福沢諭吉の顔を誰かの顔にすげ替えてもいいし、そのままプリントアウトしていろんなところに落としておくというのも面白い。
 私は財布から一万円札を出すと、スキャナーにセットした。パソコン画面の「スキャン」ボタンを押すと、ぶーん、と言ってスキャナーが立ち上がった。装置のすき間から白い光がもれる。ぶーぶーぶーとその光が読み取りヘッドとともに移動する。仕事の過程が目にみえる周辺機器はいい。プリンターもインクジェットのほうが、レーザープリンターよりもかわいい気がする。がんばれあと少しだ、などと応援してしまうのである。
 ぶーぶーぶー…がり。
 え、がり、ってなに。
 スキャナーはぴたりと動きを止めた。読み取りヘッドはまだ装置の中央あたりである。恐ろしい一瞬のあと、また、がり、と音がする。おいおいおいおいおい。
 ぶ。ぶっぶー。ぶぶ。
 光が、意気揚々と、という風に見えるのだが、最初の位置まで引き返してゆく。初期位置まで戻った読み取りヘッドは、ああ、ひと仕事終えたなあ、とつぶやくと、ぴた、と止まった。おまえ、仕事完了してないじゃないか。画面に表示されたスキャン結果は、見事にお札半分というところで止まっていた。

 なぜ最後までスキャンしなかったのだろうか。まさか、犯罪行為をしていることを見破られたのだろうか。そこに思い至って私は仰天した。高精度のカラー印刷機は、お札を印刷しようとすると内部の制限に引っ掛かって印刷を停止するようになっているらしい。まさか1万円で買った木っ端スキャナーにそんな機能があるとは思わなかった。一瞬、電話回線を通じて警察に連絡が入るのではないかとまで妄想するが、いくらなんでもそんなはずはない。
 確かめるにはお札以外のものをスキャンさせてみればよい。お札を取り出して、漫画雑誌の表紙をスキャンさせてみる。ちょっとどきどきしていたのは本当だが、当然というか雑魚スキャナーにそんな高度な機能があるはずはなく、これもやっぱりだめだった。半分ほど読んだところで、がり、と言って止まってしまう。
 ああ、これは、初期故障だろう。私はむしろ安心した。困ったあげくサポートに「お札を読み込ませようとするからです」と言われたらどうしようかと思ったのだ。読み取り面からスキャナーの中身をよく観察してみたところによると、読み取りヘッドを支持している棒に、途中で一個所小さな傷があったようである。いかんぞ、台湾のなんとかいうメーカー。もっとも、一万円であるからそれにいちいち優れた品質管理を求めてなどいられないような気はする。

 そのスキャナーは数日後、無事新品と交換してもらった。今回の教訓は、犯罪行為を行うなら、初期不良を乗り越えてから、ということである。新品の試しスキャンは、お札以外でやろう。僕との約束だぜ、みんな。


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