ライク・ア・ソング

 ある友人から聞いた話である。彼の通っていた高校では、校訓として「自律」ということが言われていた。校長先生の訓話などでもしばしばその話題が出て、「高校生になれば自らを律するということが出来なければならない。人から言われて勉強しているようではだめなのだ」というようなことを言われるわけなのだが、「自律せよ」と先生から言われるというのはひょっとしてひどく矛盾した話ではないのか、と思っていたそうである。確かに他人から言われてやるのは自律ではない。間抜けなことに高校の校門を入ってすぐのところに大きな石碑があり、そこに大きく「自律」と刻まれているのだそうで、「俺の高校、アホばっかしや」ということを登校するたびに感じる羽目になるのだという。

 ともあれ、自律は大切なことである。私など自分で自分を律するということがなかなかできなくって、締め切りがある仕事は締め切りの前の日まで手をつけずに放ってあったりする。こう書くと私もそうだと同意してくれる人が少なくないだろうが、私の場合、記入要項でさえ読む気になれず、締め切り前日になって書類作成に着手したら、上司の意見書を添えなければならないことがわかって、どえらいことになったことがある。
 反対に、仕事をしていると神が降りてくる、というか、ノっている瞬間はあるものだ。自分でこの状態に持ってゆくことが自由にできないのが問題なのだが、一日のうちほんの一時間とか二時間くらい、集中力が出て素晴らしく仕事がはかどることがある。何かで言われていたように、そういう時にした九十パーセントの仕事と、あとの九十パーセントの時間で片づけた十パーセントの仕事でもって私の全仕事になっているわけである。

 さて、集中している時間とそれ以外の時間がこれくらいの比率なので、大人数で作業しているとどうしても自分は集中している時間なのに他人は遊んでいるということがあるものである。もちろん逆の時もあるわけだが、こういうときに、コーヒーカップなどを片手に近くに立たれ、話しかけてこられるとかなりいらいらするものである。友人や後輩であれば話しかけないで欲しいと言えばいいのだが、先輩だとそうは行かず、適当に相づちを打ちながら、実は手元の仕事に集中しているなどということも多い。留守番電話に吹き込まれたメッセージのように、返答を下位意識に任せて、自動返答モードに入るわけである。

 そういう状態は自分でも悪いとは思っていて、失礼なことをしているな、とは感じているのであるが、どうしようもない。「そうですね」などとちっとも同意していないのに言っている自分に、後で嫌悪感を感じてしまう。意識を伴わない言葉というのは空虚なものである。たとえば「深謝いたします」といいながら心から謝っているかどうかでよく揉めているが、そういうことである。しかし、困ったことに会話に集中しているときでも、ある種の挨拶には心の込めようがない。

 つまりこういうことである。「これやこの行くも帰るも別れては知るも知らぬも逢坂の関」と百人一首を詠んで、意味について思いを馳せたりはしない。特にカルタ遊びをしているときはそうである。「これやこの」と来たら「しるもしらぬも」を探せばよいのであって、別に意味がこもっていようがいまいが関係ない。そもそもこの歌、私には意味がわからないのだ。しかし、「忍ぶれど色に出にけりわが恋は物や思うと人の問うまで」だと、ちょっと恋心について考えたりもできる。
 挨拶ではないが、「ありがとうございました」という言葉を口にする時に、語源にさかのぼった意味を意識しつつ発声することはできる。つまり、「有り難いことだ。つまり、こんないいことをしてもらえるなんてめったに無いことなのだ。そのことを私はよくわかっていてそれについてある種の感動を覚えている。それをあなたに伝えてあなたの希代の親切心を讚えたいのだ」という気持ちを込めることができると思うのである。そういう言葉なのだから。同じように、私の場合「さようなら」という言葉を発するときに、「おなごり惜しいのですが、もはや時間が参りました。いつまでもこうしているわけには行かないということも存じております。しかし、これで永久にお別れというわけではないのですし、そういうことであればこそ今はここであなたとお別れをいたしましょう」という気持ちを込めていることもある。

 そこで困るのが「おはようございます」である。この挨拶、どういう意味なのだろうか。広辞苑の、例によって第二版なのだが、「おはよう」を引くと「オハヤク」の音便、朝の挨拶といった解説が書かれているだけだった。なんだ「オハヤク」って。やる気あるのか新村出。
 もちろん悪いのは新村出ではない。つまり「やあ、早いですね」程度の意味しかないようなのである。これでは、気持ちの込めようもなにもない。「朝早くに気まぐれで学校や職場に出てきたと思ったら、思いがけなくもあなたに出会った。そのことに感動を覚えている。一種運命のようなものを感じているほどである。この浮き立つような気持ちをあなたに伝えたい」という気持ちはこの言葉には乗せられないのだ。

 ところで、この「おはようございます」であるが、私は普段、

のような調子で口にしている。相手が多数の場合とか、くだけた雰囲気の時には、最後を伸ばして、

のようになることもある。ところが、気がついたのだが、幼稚園児や小学生低学年はどういうわけか最後を上げて、歌うように、


と言っているようだ。こんな言い方をしているのは彼らだけであり、意味などそっちのけでただ挨拶としてこう言っていることがわかる。小学生の時の放課後の学級会などで「他にありませんか」「ありませーん」「それでは終わりのあいさつをします」「せんせい、さようなら、みなさん、さようなら」のような、これは学校によっては別のフレーズだろうが、ここまでが一つの決まり文句になっていて歌うように口にしたことがある方も多いと思うが、そういう調子なのである。
 いったい誰がこんな実のこもらない調子を教えているのだろう、と私はちょっと不満に思っていた。その疑問が解けたのがこの前朝早く自転車で町を走っていたときのことである。幼稚園バスが、目の前に止まり、そこで待っていた数人の園児を迎えた。すると中から出てきた先生が、


と挨拶したのだった。なるほど。そういう調子を、積極的に教育していたのであるか。言っておくが、社会に出たらそんな挨拶は通用しないぞ。自律せよ、幼稚園児諸君。


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