四つの力を一つにあわせ

 長い冬が終わって、春が来た。私にとっての春は、ある朝突然に訪れた。布団から外に出て、もう寒くないことを知る。着替えが苦にならなくなっている。これは、今日はコートはいらないんじゃないだろうか。そう感じ取ったときの浮かれるような気持ちはなんとも表現しがたい。大きな贈り物をもらったような、そんな気分である。

 私は毎朝自転車に乗って職場までやって来るのだが、ほんの前日まで、手袋無しではどうにも自転車に乗っていられなかった。他の防寒具はともかくとして、自転車に乗る場合には、手袋は絶対に欠かせないのである。ところがその日、外の空気は明らかに変わっていた。手袋が必要ないほどの陽気だったのである。私は、喜びとともに、手袋を外してハンドルを握りしめた。久しぶりに素手で自転車のハンドルに触れる感覚を楽しむ。指の間を通り抜けてゆく、暖かな風。陽光にほんのり暖かくなったハンドル。

「にちゃり」

 あれ。にちゃりってなんだ。にちゃ、にちゃ。私は思わず手のひらを見た。何ともない。いや、あっ。ハンドルだ。ハンドルがにちゃにちゃしているのである。なんだか膠のようなものが点々とハンドルのゴムのところに付いているのだ。昨日今日についたものではないようだが、今までは手袋越しにしか触っていないため、気がつかなかったものらしい。ああ、なんなんだ、私の春を台なしにするこのにちゃにちゃは。

 子細に観察したところ、どうもなにか透明な粘着物のようである。糖分だろうか。そんなものが自然にハンドルにつくものだろうか。私に関して言えば、自転車に乗っていて飴をなめたりしたことはない。
 …待てよ。と、私には思いつく節があった。もしかして、近所の少年たちの仕業ではないだろうか。私の自転車は、私の部屋の外、例の木戸を開けた外の通りにいつも停めてある。ということは、外でいつも群れになって遊んでいる少年少女たちの絶好の遊び場になっているということなのではないか。そして、そのくらいの歳の子供たちの手は、飴の糖分でにちゃにちゃになっていると相場が決まっている。そうか、少年、いや、竜平君(仮名)。君たちの仕業だったか。

 私は、そんな推理にげんなりすると、ほかにどうしようもなく、にちゃにちゃハンドルを握りしめて職場へと向かったのであった。

 ところで、この世の中には、4つの性質の異なる力が存在する。重力、電磁力、強い核力、弱い核力である。他にもあるという人もいるが、とりあえずみんなにその存在が認められているのはこの4つだ。

 このうち、重力と電磁力は、「強い力」「弱い力」などというなんだかよくわからない名前がついてる残りの二つに比べてはるかにメジャーであり、どちらも力の強さが距離の二乗に反比例するという共通した性質がある。つまり、二倍離れると強さが四分の一になる。三倍の距離では九分の一である。みるみる弱くなっていくようだが、実はこれらは、これらの力の中では遠くまで届く遠距離力であって、たとえば、地球などの惑星は太陽の引力で、太陽は銀河系中心にある大質量の引力で、その銀河系は大きな銀河系群のお互いに引っ張り合う引力で、と言うふうに、非常に遠くなっても力を及ぼしていることでわかると思う。わかってください。

 弱い力というのは、一言で言って、何だかわからない。中性子が陽子になったり、陽子が中性子に変わるときに働く力である。電子とニュートリノが関与する反応だが、大変に弱いので、弱い力しか働かないニュートリノは、相互作用そのものをめったにしないという性質になっている。

 で、残った強い力というやつだが、これも何だかよくわかっていないのだが、原子核の中で、陽子と中性子をくっつける力である。原子核というのは、プラスの電気を帯びた陽子と、電気を帯びていない中性子から出来ている(この二つをまとめて核子という)。だから、普通これらの材料を持ってくると、電気的な斥力で陽子同士が反発してしまう。それを無理やりまとめあげているのが、核子同士に働く核力、強い力なのである。これは電気力に比べて大変強力な力なのだが、非常に短距離でしか働かないという性質がある。

 なぜこんな話をいきなり持ち出したかというと、この強い力の性質、短距離では非常に大きな力が働くが、ちょっとでも遠くなると急速にその力が衰えるというのは、例えて言えば、ねちゃねちゃの糊のようなものかな、と思っているのだ。くっついてしまえば剥がすのは難しいが、すぐ近くにあっても実際にくっついていないかぎり接着力は働かない。こんなイメージだろうか。つまり、私の自転車のハンドルである。

 にちゃにちゃしたハンドルに手を取られながら、核力のことに思いを馳せるなんてアカデミックであるなあ、と自画自賛しながら私の自転車は職場に着いた。にちゃにちゃによって悪くなりかかった私の気分も、にちゃにちゃした陽子や中性子を思い浮かべるうちに、すっかり良くなっていた。よし、今からこの自転車を、スーパー核力一号と名付けようじゃないか。

 ところで、ハンドルがにちゃにちゃしていたのは、後日調べてわかったのだが、松の木の下に自転車を置いていたからであった。松やにだったのである。すまんかった。竜平君。


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