実験

「ナァ、大西くん、これわかるか」
「え、なに」
 と、小学生の私は返事をした。休み時間の教室で友人が、私を呼んでいた。私は、読んでいた本にしおりを挟んで閉じると、友人達の方に歩いていった。教室の隅で、ひとかたまりになって雑談をしていた5人ほどの友人達が、私の方を見ている。呼びつけられ、近くまで歩いていった私に、その中の一人が、ぱっ、と左手を突きだした。
「まず、これは」
 その友人は、左手を開いて甲を私の方に向けると、右手で左手の人さし指を指さして、言った。
「良いチューリップです」
 周りで見ている他の友人がわざとらしくうなずく。
「それから、こっちは」
 意味がわからず、ちょっと不安になった私の気持ちに構わず、その友人は続けた。今度は指さしているのは、左手の中指だった。
「悪いチューリップです」
 私は、チューリップじゃなくて、指だろう、違うのかな、などと思っていた。
「そして、これは」
 続けて左手の薬指。
「良いチューリップです。ではこっちは」
 と、再び左手の人さし指を指さしながら、
「なんでしょう」

 なにが何だかわからない。周りでにやにやと笑いながら見ている他の友人も、嫌な感じだった。なんだか、早くこの場を離れて、読みかけの本に戻りたくて仕方がなくなった私は、おずおずと言った。
「良い、チューリップ、だろう」
「ぶー」
 と、ブザー音を模して、言ったのが、その場にいた私以外の全員だったので、私はほとんど驚愕した。
「悪いチューリップでした」
「どうして、そうなの」
 私の質問を無視して、その友人は、
「では、これは」
 と、小指を指さしながら冷たく言う。
「わからない」
「良いチューリップだよ」
 と、取り巻いている別の友人。皆がうなずく。
「そう、それじゃ」
 そう言ってきびすを返して、その場を離れようとした私を呼び止めて、意地悪そうな目をしたさらに別の友人が、言った。
「これは、良いチューリップか悪いチューリップか、どっち」
「知らない。知りたくもない」
 あざけり笑う友人達の声に、私は、早く本の世界に戻ること、それだけを考えていた。

 結局私は答え、というよりも、どうしてあるときには「良いチューリップ」になりまたあるときは「悪いチューリップ」になるのかという理由を教えてもらえなかったので、長い間この「チューリップさん」は私にとって謎だった。どうもでたらめではなくて、何か理由があるようなのだが、悪ふざけでないとしたらなんなのか、私にはついに見抜けなかった。今から七年ほど前に流行した「ある・ないクイズ」の先駆けのようなもので、同じゲーム性を持っているのだが、ただ、この手の思考法に慣れないうちは、なかなかカラクリは見抜けないものである。

 手品師としてのたしなみとして、請われても同じ観客の前で同じ手品は二度としてはいけない、ということがいわれる。これはつまり、同じ手品を繰り返すと容易に種が分かってしまうから、ということに違いない。たとえば、手品の基本の一つは、物を消したり、取り出したりする動作をいかに観衆に悟られないように行うかにあり、それには、他のことに観客の目をそらす、という技術が大元にある。そしてこの技術のキモは、観客はこれから何が起こるのか知らない、というところにあるので、繰り返し演示を行うことはできないのだ。

 これに対して、この「チューリップさん」は、繰り返し示すことによって、観客がどの段階でルールに気がつくか、というところを遊びにしたものであって、その辺りを、単に演者が観客に対して優位に立つため、と考えてやられると、たまったものではない。乱数表を使った暗号と同じで、原理的に一回きりの演示では絶対にわからないのである。そのあたりに、小学生の私は、腹を立てていたのだと思う。

 ずっとあとになって、こういう遊びの方法論がすっかりわかってから、私は、これは科学の実験と同じことだったのだな、と思った。実験で科学者がなにをやっているかというと、基本的にこの「繰り返しやってその背後の法則を見つける」ということである。実験には、さらに「いろいろやってみてのぞみの結果を得る方法を見つける」「定規を当ててみて測定をする」という、おおまかに合計三つのタイプがあるが、これらは複雑にからみあっていて、すっきりと分類できないことも多い。つまり、大抵の実験には「繰り返した結果から法則を推定する」の要素がある。
 たとえば、ある装置にどうも不具合が見つかったとする。いろいろ条件を変えながら動作を試してみる。仮説を立ててみて、それを立証しようとしてみる。その繰り返しで、故障個所を見つけるのである。この手のカンの鋭い実験者は、本当にあっという間にどこが悪いのかを見つけてしまう。

 義務教育や、高校の理科の実験程度では、なかなかこの「背後の法則を推測する」という技量を試されることはない。せいぜい、与えられた法則を確かめるにはどんな実験をすればいいか、を考え出す能力が問われるにすぎない。ひどいときには、本質的に「定規を当ててみて測定する」能力だけが評価されることさえある。これも大事な実験技術だが、本当に大事なのは、背後の法則に気づく、そちらの能力なのである。

「ナァ、大西くん」
 と、その頃の私に言ってやりたい気がする。
「確かにあいつらはいけ好かないやつらかも知れない。でも、君も相当感じの悪い子供だよ」
 と、自分のことを正しいと信じて疑わなかった私をいさめてやりたい。そして、
「さあ、もう一度、頼み込んで、見せてもらいなさい。そして、めげずに何度でも、真実を突き止めるまで、あきらめてはいけない」
 と励ましてやりたい。エジソンが発明の構成要素の1パーセントだと言った霊感をもたらす、そういう粘り強さこそ、小学生の私がついに手に入れられなかった、そして今の私に決定的に欠けている資質だという気が、するのである。

 ちなみに、これは良いチューリップで、こっちは悪いチューリップなのだが、あなたにはわかっただろうか。


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