憂鬱な復路

 商売っ気のない売店で物を買うことはいかにもストレスがたまることであって、私はその日、ちょっとした苦境に陥ることになった。

 本屋で本を買うときに、レジ打ちを済ませた店員さんに「カバーをご利用になられますか」と尋ねられるときがある。買った本に本屋がつけてくれる紙のカバーをかけるかどうか、というのもこれで微妙な問題であって、本を買って読む習慣がある方はそれぞれ一家言お持ちのことと想像するのだが、今回はもう一つの、ややマイナーな問題「袋に入れてもらうかどうか」という話である。

 本を買うと、だいたいどこでも紙袋に入れてくれる。よく想像してみるのだが、ある日突然店員が私を取り押さえて、万引きの疑いで私の鞄を探るようなことがあったとする。普段から、買うべき本を探して本屋をぐるぐるうろうろしたり、ある本屋で一冊買い、別の本屋でまた一冊買って、戻ってきて今度は何も買わないで出てゆく、などといった不審な動きをしていると、こんなこともありえないとは言えないと思うのである。さあ、そうなったときに、鞄の中から何冊かの本が出てきた場合、これを私が金を払って買ったものかどうか、というのはどうやって判断するのだろう。そういうときに、むき出しのまま鞄に入っているのと、店名が入った袋に入ってセロテープで封がしてあるのとでは大違いではないかと思うのである。

 たぶんそんなわけで、本のカバーは「いりません」と答えたとしても、袋には入れてくれるのが普通のようである。これは時々は手提げがついたビニール袋であることもあって、一度などはあまりに立派なひも付きのビニール袋だったので、その後ずっと私の水着入れとして活躍していたりすることもあるのだが、まずは、最短の場合帰りの電車の中でもうゴミになる運命の、はかないものでしかない。

 考えてみれば、本屋に限らず、すべからく買い物をすると何らかの袋に入れてもらうわけである。スーパーでもコンビニでも、CD屋でも吉野家でも、買い物をすると必ず袋をくれる。近ごろはスーパーなどで袋を持参するとポイントカードにハンコをくれる場合があるが、無精な一人暮らしの私としては、究極的にはゴミになるビニール袋をもらわずにはいられない。余談だが、アメリカのスーパーで買い物をする場合、お金を払い終えておつりを受け取った後、店員が何か言ったら、それは「袋をビニール(プラスチック)にするのか紙袋にするのか」と聞いている。こちらは、買い物を終えてお金を払った以上、このうえ何かを聞かれることがあるとは思っていないので、なにしろ意表を突かれるのだが、ここで「紙袋にする」ではなく「ぷらすちっく、ぷりーず」と答えると、舌打ちとともに「この環境破壊ダニ野郎が」という侮蔑の視線で見られたうえ、ぺらぺらでずるずると伸びてしまう頼りないビニール袋に買ったものを詰め込む羽目になるので、みなさまも十分ご注意されたい。

 さて、そんなある日のこと、私は職場でコーヒーに入れるクリーミングパウダーが切れたことに気がついて、社内の売店に買い物に行くことにした。私が大学生だったときは、大学生協で、専門書、CD、食料飲み物から文房具、衣服からパソコンのかなりマニアックな小物(マッキントッシュ・パワーブック用SCSIアダプタとか)まで買いそろえることができた。これが実はいかに得難い便利さなのか、その時はよくわかっておらずむしろビールがないとか定食がまずいとかカレーがダマになっているとか文句ばかり言っていた私だったのだが、今の私が買い物に行くべき社内購買部の品ぞろえの悪さを知った後ではあれは一つの桃源郷ではなかったかとさえ思うのである。マウスパッド一枚を買いにわざわざ池袋まで出なければならないのは我慢するとしても、普通の食料品でさえしばしば品切れになっているのだ。

 そういえば、前回は、この売店にいつも使っているブランドのものがなく、しかたなく別のを買った。この時買った「クリープ」は、味に文句があるわけではないのだが、なんだか同じ値段で内容量が少ないうえ、飲んだ後のコーヒーカップの汚れがひどいような気がするのだ。こんなことを気にしているのは私だけなのだろうか。などと思いながら購買部のある小さな建物のドアをくぐった私は、今回はちゃんと目指す品物の在庫があることにとりあえずほっとした。得点、いち。

 その購買部に店員は三人ほどいるのだが、今日はその三人が三人とも、新しく入った品物に値札をつけたり、棚に陳列したりといった作業に没頭している。この店員さんたちは売り上げにかかわらず賃金を保証されているにちがいない、と私が思っているからだろうか、なんだかいつも覇気に欠けるように見える。私は床にコンテナを広げて作業をしている彼女達を避けて、インスタントコーヒーの類が並んだ棚のところまで陳列棚を大回りして行かなければならなかった。通りたそうにしている客に気づかないのだろうか、と思ったことは確かだが、まあ、わざわざどいてくれと頼むほどのこともない。私が別の通路を通ればいいだけのことである。でも、減点いち。

 首尾よくクリームの大瓶を手にした私は、レジに向かった。まさか本当に私に気づいていないなどということがあるとは思わなかったので、しばらくカウンターの前に所在なげに立っていたのだが、本当にいつまでたっても放っておかれたままなので、私はしかたなく「すいませーん」と声を出して呼んだ。やっと店員の一人が気がついて、こちらに歩いてくる。減点二、だ。特にわびの言葉もなく(もう一点減点)、レジについたそのおばさんは、じっと瓶を見ると「値札が見えないねえ」などと言いだした。蓋に付いている値札が薄くて読み取れないのである。416円の6の字が、たしかに0のようにも見える。私は「6だろ、六。いい加減にせえよこら」と言いたくなるのをこらえてじっと立っていた。ここで私が口を挟むべきではないような気がしたからだ。おばさんは、どうしてそんなものが用意されているのか分からないのだが、どこからかルーペをとりだすと、値札を調べ始めた。「こういう場合って、値段付けをする時に参照する原表があるんじゃないのかなあ」と口を出してさらにやっかいなことになってはたまらないので、私はさらに待つ。また減点二を課しても、納得できるところではないか。

 私はお金を払っておつりを受け取ると、おばさんの次のアクションを待った。当然袋に入れてくれるだろう、と思ったのである。手にもって歩くにはちょっと大きい瓶なのだ。ところが、これまでのおばさんたちの行動が、単なるポカではなく、意地悪だったのだ、と理解するしかない出来事が起きた。おばさんは、すっと奥に入ってしまって、そのまま出てこなくなったのである。うおお、減点三だ。

 わたしは呆然として、なんとなく、だれにともなく一礼すると、瓶を持って、外に出た。残暑の日差しは強烈であった。私は太陽を眩しく見上げながら、自分のオフィスまでずっと、この瓶を手にもって歩くのだなあ、と思った。すれ違う人すれ違う人に「この瓶はあやしいものじゃないっス。店が袋にいれてくれなかったんス」と心の中で言いわけしながら歩くんだなあ、と。瓶は、片手で持つには大きすぎて、ちょうどバスケットボールを片手でつかむように指を一杯に広げてなお落ちそうだった。といって脇に挟むにはかさばりすぎ、両手で持つほどの重量もないのである。とにかく居心地が悪かった。

 結局、自分のオフィスにたどり着くまでに一〇人ほどの通行人にけげんな顔をされることになった私は、やっと自分の部屋に戻ってきた。一息つこうとした私に、それを見ていた同僚が一言こう言った。
「そのクリーム、どこから盗んできたの」
 そういう意味で、もう二点、減点させてほしい。しめて今日の収支、減点一〇。


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