タイトルマッチング

 日記や評論、普通の手紙とは違って、文章につける題名は小説論文雑文電子メールには不可欠なものだが、一篇の、たとえば小説が書き上がる過程の、どこでタイトルが付けられることになるのだろうか。中短篇ならすっかりでき上がってしまってからふさわしい題が付けられてもおかしくないが、新聞や小説雑誌などに連載される長篇小説の場合、前半の数章ができた時点で連載が開始されるなどして、タイトルを公報した時点ではまだ最後まで書き上がっていないということは十分ありそうな話だと思う。むしろ、まったく書き始めてもいない時点で題名だけは決まっていて広告が出ている、などということも時にはあるかもしれない。

 司馬遼太郎の「竜馬がゆく」は、いいタイトルだ、なにしろ竜馬がゆくのだ。走ってゆくのだ、と武田鉄也あたりが書いていたことがあるが、読んでみると、こんなことを言っては何だが、最後まであまり竜馬は走らなかった。同じ司馬遼の「坂の上の雲」は、最後の、本当に最後の章になってから「坂の上の雲のようであった」とかなんとかいう一文があって、なるほど、と思うよりはなんだか取って付けたようだなあ、と思うところが大きかった。おもしろいのは山本周五郎の「樅ノ木は残った」で、冒頭かなり早いうちに樅の木が出てくるので、ははあん、この木が残るのだな、とわかるのだが、だからといって樅の木の話であるわけでもないので、それ以降樅の木はあまり登場しない。確かに残るのだが。

 偉大な作家のいい題名を批判している場合ではない。私に関係があるようなタイトルというと、そういう堂々たる長篇小説ではなくてこういう短文雑文の類である。私だけなのかどうか、文章のタイトルの決定には、毎回意外に時間がかかっている。題から思いつく、ないし前に書いた続篇だから最初から決まっている、というような希有な例外を除いて、いつも書きながらああでもない、こうでもないと悩んで決めているのだ。仮決めしてから本篇をちょっと書いて、いかんいかん俺はこんなふざけた題名を世に問うつもりだったのかと反省してタイトルを付け直し、またちょっと本篇を書いては、なんだこれは全然これっぱっちも面白くないさっきの方がマシではないかと元に戻し、最終的にわけがわからなくなって、いいかげんなものに決まってしまうことも多い。

 ここで唐突に別の話をするが、足の裏を自分でこちょこちょやってもたいしてくすぐったくないのに、他人に同じことをされるとどうしてああもくすぐったいのか、という話があって、あれは、一説によれば、くすぐられる方が緊張しているとくすぐったく感じるものだということである。他人に触られるとどうしても防御姿勢をとってしまうので、感覚が鋭敏になり、ちょっと触られるくらいでくすぐったくて仕方がないらしいのだ。本当にリラックスして付き合っている相手になら、触られてもくすぐったくないそうなので、試しに隣にいる人をこちょこちょやってみてください。

 さて、こういう話をしたのは、タイトルに関してもこの法則は成り立つということが言いたかったのである。ちょっと洒落たつもりでつけた名前の場合、数日経ってから自発的に突如として恥ずかしくなることは確かにあって、ああもう、なにが「花屋敷の殺人」だよもう、駄洒落じゃないか、必然性ガナイジャナイカ、などと思うこともあるのだが、自分で読んでみて、確かに凄くいいタイトルではないがかといって別に恥ずかしいわけでもない、といった程度に思っていたはずなのに、他人に朗読されると突然恥ずかしくなることがあるのだ。何かの拍子に掲示板などで他人が「『宇宙間への大飛球』という一文が」などと書いておられているのを見つけると、身をよじるほどに恥ずかしい。うわあ、宇宙と右中がかかっているんだ。誰がこんな馬鹿なことを。私か。ああ、バカミタイ。

 これがホームページの題名なんかだと、それからずっと使い続けなければならないので、ずっと途切れなく恥ずかしいままではないか、と思う。ところが、そうでもないのである。ミミカキを毎日しているとあんまり気持ちよくなくなってくるように、どんなに変なタイトルだと思っても、十回、百回と言い続けているうちに、そんなに変にも思えなくなるものなのだ。たとえば、「大西科学」も最初に思い付いたときにはずいぶんこっぱずかしい名前だと思ったものだが、もう完全に違和感なく「ジャッキー大西@大西科学でーす」などと名乗っているのである(そういえばジャッキーも恥ずかしいが慣れた言葉の一つだ)。文章のタイトルは麻痺するまでは使い続けられないところが恥ずかしいのだと思う。

 今回のタイトルは「タイトルマッチング」であるが、あとで悔やむことになるというよりは、なんだかもう、今の時点で自分で触っていてもうくすぐったい。これがもう他人に言及されたりすると、きっととんでもないことになると思ってちょっと楽しみですらあるのだが、逆にこんな文章に誰も触れてくれなかったらどうしようとも思うのである。ずいぶん寂しいことではないかと思う。


トップページへ
▽前を読む][研究内容一覧へ][△次を読む