くらやみ坂へようこそ

 私が今住んでいるところの近くに、ちょっとした坂がある。以前も書いたし、あらためて言うほどのことでもないが、自転車にとって坂は鬼門であり、いくらか遠回りすることになろうとも、なるべく上り坂は避けて通るべきものだ。もちろん、目的地が高い所にある場合はどうしたってどこかで坂を登らないといけなくなるわけだが、途中に丘(あるいはくぼ地)があって、上ってまた下りてくるような道がついている場合は、丘全体を迂回してでも平らな道を走ったほうが結局は楽に目的地に到達できるのである。この坂も、かなり急なうえに自転車が利用できるような広い歩道がなく、他に道がないではなし、私は自然とその坂を通らないことに決めていた。先日たまたまそこを通ったのも、雨が降ったため徒歩で通勤していたからだ。

 その時に初めて知ったのだが、この坂には「くらやみ坂」という名前が付いているらしかった。自転車でここを通り過ぎたのではまず気がつかなかったと思うのだが、坂の起点に斜め上向きの矢印のついた看板が立っていて、そこに「くらやみ坂」と書かれているのだ。なんというか、マンガ的な名前である。思わず「あしたのジョー」の「泪橋」を思い出してしまった。これからこの坂を登るところだからいいようなものの、下るのだったらやりきれないなあ、と思ったりもした。

 話はここでかわる。「軌道エレベーター」というものがある。ある、というか、そういうものがどこかに存在するのではなくて、原理的に可能な未来の技術として考えられているだけのことだが、SF小説などでは、タイムマシンとかアンドロイドなどと同じように、特に説明なしで出てくる可能性があるほどポピュラーな装置である。なじみのない方もおられると思うので簡単に説明すると、これは、衛星軌道と地上を結ぶエレベーターのことである。
 宇宙開発が進んでゆくにつれて、どうしても無視できないコストとして最後まで残るのが、ロケットの打ち上げにかかる費用である。たとえば、庭の柿の木に秋になるといつもたわわに柿が実るとする。さて、あなたはたまたまバレーとかバスケットの選手であって、異常なジャンプ力を持っているため、力いっぱいジャンプすればなんとか柿に手が届く。そうしていつも柿をとっているわけだが、あなたはときどき思うのである。一度思い切ってお金を出して梯子を買ってくれば、もうぴょんぴょんジャンプする必要も、ジャンプに失敗して軒に頭をぶつけたりする心配もないのに、と。

 軌道エレベーターは、このように、ジャンプするよりも梯子を登るほうが楽、という原理に基づいている。燃料を燃やして噴出させて飛ぶ、というやり方は、かなりエネルギー効率が悪いのである。もしも、天まで届く梯子があってそれを登ってゆけるなら、最低限のコストで物を衛星軌道上に運び上げることができる。衛星軌道から同じ重さのものを(たとえば、地上で役立つ鉱物資源だったり、軌道上の工場で作られた医薬品などの工業製品だったりするだろう)運び下ろす荷があるなら、それで発電を行うことで、運び上げコストはさらに低くなる。要するに「つるべ」だと思えばいい。一度作ってしまえば、非常に低コストで、衛星軌道上にどんどこ物を運び込むことができるようになるのである。

 作られればどえらく便利なものであることはわかったとして、本当にそんなものを作ることができるのだろうか、という疑問は当然出てきてしかるべきだろう。柿の木なら梯子をかけることができるが、衛星軌道上には柿の木はないのである。柿の木くらいの高さなら脚立(きゃたつ)のような、自立する構造物を建てることができるわけだが、衛星軌道となると、バベルの塔のように、自重を支えることができる高い高い塔を作るのは到底不可能なのだ。ところが、結論から言うと、今あるものよりも、もう少しだけ軽くて強い材料があれば、作ることは不可能ではない。カーボンファイバーのような強い素材がもう少し進歩すれば、建設は無理な話ではないのだ。

 もう少し詳しく見てみよう。まず、軌道エレベーターの下の端は、地上に繋がっているので、二十四時間で地球の中心のまわりを一周する。他の全てのものと同じように1Gの重力で地上に結びついているわけだが、ここで注意しなければならないのは、わずかとはいえ、その他に自転による遠心力が上向きの力として存在することだ。赤道上で、重力の0.3パーセント強になる。確かにこれは大したものではないが、軌道エレベーターを登ってゆくにつれて、重力はますます小さくなり、遠心力はますます大きくなる。具体的に言うと、重力は地球中心からの距離の二乗に反比例して小さくなってゆき、遠心力の強さは距離に比例して大きくなってゆくのだ。これは、ある一点、いわゆる静止軌道と呼ばれる、地上から三万六千キロメートルの地点でついにつり合う。そこから先は、遠心力のほうが大きくなるのである。つまり、軌道エレベーターに乗って地上を離れて上昇してゆくと、静止軌道までは重力の方が強い「登り」なのだが、そこからはかえって遠心力の方が強い「下り」になるのだ。そういうわけで、静止軌道より下の部分の重さを、静止軌道の上にでっかいオモリをつけるなり、長く紐を垂らすなりして釣り合いをとってやれば、細いワイヤーのようなものでも、軌道エレベーターになるのだ。

 さて、この軌道エレベーター、便利だしとにかく「作れる」のであるから、これはもういつか作られることだろう。作られるとしても来世紀の終わりごろぐらいにはなるだろう、とここでまた迂闊な未来予測を入れておくが、ここで、自分の書いた未来史の中に登場させるに当たって注意しなければならないことがいくつかある。その一つは、軌道エレベーターは基本的に赤道上にしか作ることができない、ということである。赤道上以外に作ろうと思うと、赤道上と比べてエレベーターの長さが無駄に長くなる上に、重力と遠心力が反対方向を向かないのでたわみの力にも耐えなくてはならなくなる。赤道の反対側にもう一つ作ってどこかで繋ぐというアクロバティックな解決方法もないではないが、赤道上以外に軌道エレベーターを作るのは、一般に大きなムダでしかないのだ。

 そうは言うものの「東京上空の軌道エレベーター」という言葉は、実に豊かなイマジネーションをもたらしてくれる。無理やり東京に軌道エレベーターを建てたとすると、東京の緯度は35度41分なので、南の空、天頂から三六度も傾いた方向に向かって伸びる一本の線として、軌道エレベーターは周囲から見えることになるだろう。エレベーターというよりは、やや傾斜が緩めの梯子か、ちょっと急な階段か、というところである。

 そして、その時こそ、この軌道エレベーターには「くらやみ坂」の名前がぴったりであろう、と思うのである。坂であることはともかく、朝夕に太陽の光を反射してきらめく、まっすぐに伸びる軌道エレベーターに「くらやみ」の名はふさわしくないような気もするが、東京に軌道エレベーターを建てるなどという恐ろしく無駄なことをしたからには、国民の税負担も、とんでもないものになっているはずだからである。税金のむだ遣いを象徴する、坂道になるだろうと思うのだ。


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