神様を焼いて食べろ

 米はその一粒一粒に神が宿っており、一粒たりともおろそかにはできない、という話があって、そういう神様が宿っているようなものを炊いて食べてしまっていいのかどうかという話がまず当然あろうかと思うのだが、とにかく食べ物を粗末にしてはいけないというのは基本的に正しい態度であると思う。ところが、農家などをやっている我が家ではこの米の貴重さについて、奇妙なダブルスタンダードで子供へのしつけを行っていた。

 まず、あなたの家も多くはそうだと思うが、晩ご飯などのとき、私たち兄弟がお茶わんに盛られたご飯を一粒でも残したりすると大変叱られたものである。そのしつけがいかに厳しかったかというのは、今でも私が家族と晩ご飯を外に食べに出かけると、皿に盛られたライスが一粒も残らないということで分かろうかと思う。
 その一方で、私が小学校の高学年くらいから本格的に手伝いに駆り出されていた米の生産の現場で、私は、父が現代の生産者として意外にリベラルな意識を持っているということを知って安心するとともに少し驚いた。稲刈りの時、もみすりの時、食べる直前に行う精米の時、注意していてもわずかながら米粒はこぼれ落ちるものだし、その一粒一粒を拾い集めるにはこれでかなりの手間がかかるのだが、私としては、それはもう米というのは普段の食卓であんなに大切に扱われているのだから、きっとあとで集めろと言われるに違いないと思っていた。ところが、作業が終わってみると、その、集めれば茶わん一杯分にはなるに違いないその米を、案外ぞんざいに、ちりとりに掃き込んで捨ててしまったのである。何も言わなかったが、私の頭上に黒々とした大きな疑問符を、字幕スーパーで入れて欲しい気分だった。

「俺の故郷では、ミカン焼いて食べるんですよ」
 さてそんなことがあって二十余年。唐突にそんな話が出たので場は騒然となった。職場の飲み会の席である。発言者の出身地、会津では、どうもそういうことをするらしい。なお、この文章では、以下、便宜上出身地をもって発言者の名前に代えることにするので、この発言者は「会津さん」ということになる。
「しませんか、焼きミカン。おいしいですよ」
 と、会津さんは周囲の千葉さんや奈良さんに同意を求める。
「いいっ、それはやらない。絶対やらない」
「おかしいのではないか」
 当然というべきか、他地方出身者から一斉に非難の声が上がる。それはそうだ。ミカンは普通焼いて食べるものではない。
「いや、本当、おいしいんですってば」

「いやあ、そういえば、うちはやるかもですよ」
 と言ったのは、私である。つまり、兵庫さんだ。
「えっ、お前もか」
「いやいや、ほら『とんど』ってあるでしょう、正月一五日の、お飾りとか書き初めなんかを焼く」
 兵庫さんの田舎ではそう言うのである。
「ああ『どんどん焼き』ね」
「そうともいうかもですね。あれで、正月のお飾りを焼くわけですが、それにはミカンがついているでしょう」
「ふむ」
「それはもったいないので、生焼けをとりだして食べるわけですよ。まあ、そんなにうまいもんでもないですけど」
「ははあ」
「いや、それじゃないんです。たまたまできるんじゃなくて、わざわざ焼いて食べるんですよ。その方がおいしいんですって」
 と、会津さんは強硬である。

「そんなの、絶対にやらなかったわ。というか、考えられなかった」
 と憮然として言ったのは、愛媛さんである。
「ミカンを並べたりお手玉にしたりして遊んでいたりしたら、ものすごく怒られたものです」
 なるほど、ミカン農家では、ミカン一粒一粒に神が宿っているとしつけるのに違いない。いや、ミカンを焼くというのは遊んでいるわけではないのだろうが。
「うん、おれもだよ。ミカンを焼くなんて、そんなの恐れ多い」
 静岡さんが同意する。どうもこの二人、いままで気がつかなかったがミカンの産地に産したという点で共通点があるらしい。「ミカンつながり」と表現してもいいだろう。

「私、リンゴの産地ですが」
 と、弘前さんが口をはさむ。
「ああ、そうだ、焼きリンゴっていうのはどうだった、やっぱり青森ではリンゴは神聖な」
「あいやいや、そんなことないです。焼きリンゴ、しますよ。おいしいですよね」
 さすがは弘前さん。青森ではミカン人たちのように偏狭なことは言わないらしい。リンゴとミカン、どちらもパイやケーキの材料になる食材だが、そこに日本独自のミカンの限界があるといったら私もミカン人達に怒られるだろうか。
「焼きミカンも、だからそれと似たようなものですって」
 会津さんはまだ言っているのであった。

「いやともかく、ミカンを粗末にしたらいけない。ほら、冷凍ミカンってあるだろ」
 と、静岡さんが会津さんをじろりと見て、言った。
「ありますあります」
「はいはい、学校給食に出ていましたねえ」
 と同意する会津さんや弘前さん。そういえば、兵庫さんである私のところでも、冷凍ミカンといえばこれは給食で出るものだった。日本の教育はどうなっているのか。
「それは、長いあいだ、知識としては知っているけれども、誰が食べるんだかわからないものだったよ」
「ああ、私もそうですよぅ。ミカンを凍らせて食べるなんて、それも考えられなかった」
 静岡さんと愛媛さんが意気投合している。
「い、いやあ、おいしい時がありますよ、あれも」
「や、ああいうのは、ミカンが新鮮じゃないから、そんなことするんだろうなあ、と哀れに思っていたよ」
 と、静岡さんは他地方出身者を見下したような発言をするのであった。あるいは、ミカンを焼くというような不埒な発言をした会津さんに、本能的な反感を覚えていたのかもしれない。私だって、地元の産物をないがしろにされたと感じたときはどうなるかわからない。だからみんなも、お米は残さず食べよう。

「まあともかく」
 と、上司である静岡さんは、会津さんに向き直り、言った。
「ミカンを焼いたりするのはちょっと人間として社会人として、どうなのかな」
 いかん、目がすわっている。どうする会津さん。
「い、いや、本当は」
 と、部下である会津さんは言うのだった。
「わたしも焼きミカンは、あんまりしません。ごめんなさい」
 その態度、白虎隊が聞いたら泣くと思う。会津さんとしてそれでいいのか会津さん。


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