うえすこんぷ

 それは「大学」というものの本質とどうかかわりがあるのか、はたまた語学を専門とするわけではない学生にとってどんな意味があるのか、というような議論をここでするわけではないのだが、大学生になると、たいてい「第二外国語」というものを学ぶことになる。「学ぶことになる」というのは要するに「無理やり授業を受けさせられる」の婉曲表現なわけで、とにかく、大学にいる間に日本語と英語のほかにもう一つ別のコトバの授業を受けて、その授業で合格点を取らなければならなくなる。そうでなければ卒業させてやらん。それどころか、楽しい専門科目を学ぶ資格すらやらん、と、大学当局は主張するのである。

 それがやりたくて入学した「専門科目」が、本当に楽しいものなのかどうかというのはもちろん別の議論なわけだが、三年生になれないというのはどうにも困ったことである。単位がひとつかふたつ足りなくてもう一年、というのは、放課後居残りで給食を食べさせられている小学生のようでぞっとしないし、その間も授業料を取られるとなればなおさらである。年号が変わって間もないある春、大学に入学した私は、履修要項の説明を受けながら、気分が暗く暗く沈んでゆくのをどうしようもなかった。

 このあたり私の大学は、またも不可解な思考の迷宮に入り込んでしまっていた感があり、「第一外国語としては、入試の時にやったのと別のコトバを履修せねばならぬ」という妙な決まりがあった。つまり、事実上ほとんど全ての学生にとって、英語は第二外国語ということになるわけである。第一と第二では、授業の回数が倍ほども違うのだが、ここにどういう意図があるのか、よくわからない。ドイツ語、フランス語、中国語、ロシア語といったメニューから「第一外国語」を選べということになる。これらの国々に含むところがあるわけではないが、公平に見てどうも「第一」の言葉に値しない気がする。たとえて言えば四番の器でないコトバばかりである。ああ、ややこしいたとえだ。

 格言に言う。避けられないものなら楽しむべきである。なにしろ元気だけなら元手もかからないわけで、カラ元気でも元気である。そう、最初からあきらめてかかるものでもないし、うまくいって三カ国語を喋れるようになったらそれはもう格好いいのは確かである。バイリンガルではなくてトリリンガルだ。オキガルには行かないがヤリガイはある。トンガってゆきたいものだ。さてそれではどのコトバがいいか。私は、このことで二日ほども悩んだあとフランス語を履修することにしたのだが、なにもアミダで決めたわけではなく、一応の理由はあった。つまり、
「あ、ほら、あれだ。フランス人って、ちょっとアレな人々で、断じてフランス語しかしゃべらないらしいじゃないか。ドイツ人はそのへん人間ができていて、英語を喋ってくれるって言うぞ。ソ連にはまず行くことはないだろうし、中国語はいかにも漢字が難しそうだ。フランス語が一番簡単で役に立つって。本当だってマジだって」
 ちなみにこのころは、新潟の対岸にあるかの国はまだソ連だった。

 ところが、考え抜いた末のこの決断が、いかに類型的で俗物的で朝三暮四でスットコドッコイでマンモーニな決断であったか、私はその後二年間でたびたび思い知ることになった。要するに理系にとってドイツ語はまだしも論文などで出会う可能性が高いメジャーな言語で、ロシア語はキリル文字のアルファベットが読み書きできるだけで一年目の単位がもらえるというもっぱらの噂であり、中国語は全く勉強しなくても読むだけはなんとか可能的な、たいへん愛嬌のある言語であったのである。

 そういうわけで、これらのどれでもないフランス語に対して、私がかけた情熱は実に冷えきったものだった。端的には、当時の私のフランス語のノートのタイトルは「腐乱死語」などとなっていた。つまり、士気がいかにも低かった。さらに悪いことには、私が割り当てられたフランス語の先生は「エモネ先生」というフランス人の人だった。いや、確かに、一般にその国の人にその国の言語を教えてもらえるというのはすごく運のいいことであって、そのあたり私の大学はちゃんとした授業を提供していたと誉められてもいいはずなのだが、一つどうしようもない問題があったりするのである。彼女(三〇歳くらいの女性の先生だった)は、恐るべきことに、フランス語の他には英語しか喋れない人だったのだ。

 エモネ先生のフランス語の授業は混迷を極めた。渾然としていた。渦を巻いていた。ぐるぐるだった。とにかく、英語でフランス語の授業をされるというのは、これはもう、自動車の教習所にバイクで通うしかないようなものである。そして私は、まずもってバイクに乗れなかったのだ。結局その一年の間、自動車の運転はちっともうまくならなかった。こんな調子である。
「ムッシュオオニシ。ぺらぺらぺら、ぺら、ぺらぺらぺら(英語)。ジュスイジャポネ」
「(何を聞かれているのかわからない)え、あ、うー、その、アイアムジャパニーズでいいアルかな」
「ノン、トゥエジャポネ、ぺらぺらぺら(びっくりしているらしい)」
「(日本語で)わかんねえっス」
「パルドン、ぺらぺらぺら、ぺらぺらぺら(怒っているらしい)」
「(怒っているということしかわからない)ご、ごめんある」
「ぺらぺらぺら、ジュヌパーレパうんぬん、ぺらぺらぺら(そうとう怒っているらしい)」
「(またも日本語で)あぁ、もう許してつかわさい」
 私も困ったが、先生も困っていたのではないかと思う。それにしてもこの先生、何をしようと思って日本に来たのだろうか。

 先生のいうことがあまりにもわからないので、私は夏休みまでのおおよそ三ヶ月ほどですっかり授業を投げてしまった。フランス語は私の人生に関係がなかったということでこれからもやっていこうときっぱり決意していた。せっかく授業で覚えたことも片端から忘れ去っていた。ノートを見てもなんの復習にもならなかったのでしかたがなかった。さらに二ヶ月という気が遠くなるような長さの夏休みがやってきて過ぎ去った後ではなおさらであった。夏休みの最後には、ほとんど先生の顔も忘れていた。

 といって、大学をサボるところまで行かなかったのが私の気の小さいところである。私は授業には出てゆき、真面目な顔をしてノートはとっていた。といっても、授業は進み私は残るわけで、もはや身のある内容をノートすることさえできない。それで私がどうしたかというと、ぼうっと窓の外の雲が流れるのを見ていても良かったのだが、先生の言ったことをカタカナにしてノートに書き写す、という不毛な作業にあけくれていたのである。あとでフランス語の辞書なんかを一生懸命引けば意味も取れるだろう、と思ったわけだが、教室の外でフランス語のことを考えるのが嫌だったので、もちろんそんなことは一度もしなかった。
「イストア・テアラ・ブレ・ブ」
「キスクモン・ポ・ソンエムニ」
「ウエスコンプ・モンテラトン」
 もう、フランス語でもなんでもない。隣にへんなサカナの絵が書いてあるのは、いったいどういう意味なのかも思い出せない。私の「腐乱死語」のノートは、あるページからあと、ひたすらにそうしたカタカナが書き連ねられている。とても他人には見せられるものではない。そういうわけで、このノートがその後どうなったかというと、今も私の本棚にあるのです。


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