一円を笑え

 昔、アメリカのある実験施設に出張したとき、カフェテリアのレジのところで、浅い箱に入って十数枚の一セント玉が置いてあるのを見た。お釣りが九九セントなどということがないように、端数の調整に客が自由に箱の中身を取り出して使っていいようになっているのだ。と、ここまでは以前ここに書いたことがある話だ。合理性に感心したものだが、最近になって、近所のコンビニが同様のシステムを導入したようで、やはりレジの横に置かれたプラスチックの小箱の中に、十数枚の一円玉が置いてある。使った分は、また次の機会に、余ったときにでも返して下さい、と添え書きがあったのだが、そのコンビニが「セブンイレブン」だったりするので、私としては、隣に依然として置かれている「緑の基金」募金箱がどうにも気になってならなかった。根拠のない想像に過ぎないが、この募金、かなりの部分が「お釣りの小銭なんて、いらないよ」という層のお釣りを、バイト店員が放り込んで処分することによって、成り立っているのではないだろうか(そういう光景を目の当たりにしたことがあるのだ)。募金総額が、がっくり減らなければよいがと思うのである。

 さて、そういうことがあって、一円玉の持つ意味について、もう一度考えてみようと思い立った。思い返してみれば、物心付いてから二十余年、私にとってのお金の価値は実に大きく変化したものである。物価が上昇して相対的にお金の価値が下落したこともあるし、大人になって収入が増え、自分の自由にできるお金が増えたこともあるのだが、このことはたとえば「千円札」という紙幣がどんな意味を持っていたかを考えると実感としてよくわかる。小学生ごろの私にとって、ほとんどこれで買えないものはない万能の単位であった千円が、今やどれほどに疲れくたびれて重大な意味を失っていることか。といって、じゃあ私にちょうだい、と言われるとやっぱりあげたりはしないのだが、普段の生活において、せいぜい数日で財布の中を通り抜ける運命にある悲しい紙幣であることは確かである。

 しかし、一円玉に対するイメージ、どの程度の価値を一円玉に認めているかということに関して言えば、これは小学生だったころから、まったく変化していないように思える。要するに「価値はゼロに近い」という意識のままなのである。最初からこうなのだから、それ以上軽くなりようがない。むしろ、今のように消費税が導入され、世の中に円の桁の価格があふれかえるようになってからは、端数を払う道具としてやや必要度が増しているくらいである。かの税制が課せられる以前には、一円玉と五円玉は、普通に暮らしていると出会うことがない、ほとんど「お金以外のなにか」という認識でも不思議はなかったと思う。

 この辺りが小学生の頃の私の単純なところなのだが、かといって本当に一円玉をお金扱いしていなかったかというと、やはり小なりといえどもお金、一円玉に対して無体なふるまいをすることはどうやらなかった。というよりも、これを一山もあつめたところで、あのアイスクリームが二つ三つ買える威力のある百円玉と同等の価値しかないのだ、という冷静な判断が働かなかっただけかもしれない。ある種の鳥類が、光り物ならなんでも、ガラス玉も宝石も区別せずに蒐集するように、ただ「お金である」ということをもって尊敬しているに過ぎないのだろう。価値はゼロだが捨てられない。そういうものの一つだったのだ。

 そうした私の気持ちとは別に、良く言えばそのあたりの価値認識がしっかりできている、悪く言えばタガが外れている友人というのは、やはりどこかにはいるものである。あるとき私が道に落ちていた一円玉を拾ったことについて、ここにはあまり記したくない言葉を使って私をからかう、ということがあった。意訳するならばこうである。
「そのような行為は他人の慈悲にすがって生計を立てる街頭生活者と同等のものでありたいへん見苦しいと思う」
 そのあと、さらに「私は今ここにあなたと私の間に一種の結界の発生を宣言し、もって一時的な断交状態を言い渡すものである」という意味のことも言っていたが、どう思われるかあなたは。

 子供の言うことを今になってあげつらおうというのではない。その彼女(なんとまあ、女の子だったのである)が、妙なことを言っていたのだ。いわく、地面に落ちている一枚の一円玉を拾うという行為には、一円以上のコストがかかるので、拾えば拾うほど損をする、というのである。はっきり言って、これには虚を突かれた。なかなか逆説的で、面白い視点である。そのアイデアを聞かせてもらったお礼に、拾った一円を差し上げてもいいくらいである。しかし、果たしてこれはどの程度本当なのだろうか。そもそも、損をするというのはどういうことか。とりあえず二通りの意味が考えられる。時給換算で高くつきすぎる、というのと、そういう運動をすると腹が減るがそれは一円分の食べ物より多くなる、というものである。

 簡単な方から行こう。給料方面からの考察である。まず、あなたが二五万円の月給をもらっている人間だとする。建前上、毎日八時間の労働に対して一万円くらいの収入を得ているわけだ。これは時給換算で一二五〇円。だから、二・八八秒の労働につき、一円もらっているという勘定になる。三秒かけて一円玉を拾ったら普段の仕事と同じだけの収入になっているわけで、これは必ずしも悪い話ではない。実際に一円玉を拾い上げるために必要な時間は一秒そこそこではないだろうか。この場合、あなたは一円玉を拾うことで、瞬間的に月給七二万円の価値ある仕事をしたことになる。もちろん、これ以上もらっている人は、一円玉を拾うような真似をしないほうがいいことになるのだが、損とは言いきれない気がする。だいたい、遊んでいる時間ではないか。

 では、エネルギー換算ではどうか。一円で購えるカロリーと、一円玉を拾うことで使うカロリーはどっちが大きいか。まず、食事と代金の関係だが、私がさっき食べた、まことに質実剛健な、味よりも晩まで腹が減らないことをもってよしとするタイプの昼食は、代金四〇〇円で、七一二カロリー(※)だった。一円あたり二カロリーということになる。一方、一円玉を拾うために、上体を倒して、またもとの位置に復帰する、ということで使う熱量がどのくらいかというと、これを見積もるのは実はなかなか難しいのだが、物理的な仕事量ということでいうと、まあ上体の重さ四十キログラムを、高さ一メートルに持ち上げる程度であろう。これは約四百ジュールということになって、カロリーに換算すると〇・一カロリー弱。つまり、かがんだことによって使ってしまう余計なエネルギーは五銭程度で買える勘定になるのだ。もちろん、人間の運動の効率は百パーセントとはいかないだろうが、たとえ消費したエネルギーのわずか十パーセントが仕事に使われ、あとが捨てられていたとしても、一円玉で購えるカロリーよりは、一円玉を拾うことによるエネルギーのほうが低くなる。こちらもどしどし拾うべしということになるのである。

 結論である。少年の私が聞いた話とは異なり、歩いていてふと足もとに一円玉が落ちているのを見たら、拾ったほうがいい。でも、一枚拾うために三秒以上かかったり、体重八〇キロの体を数メートルも移動させなければ取りに行けないような場所にある一円玉は、どうやら取りに行かないほうがいいようである。そして、こうした考察から、ある結論が導き出せると思う。すなわち、神社などで池の中にたくさん一円玉が落ちていることがあるが、あれは実はそういうわけで、いつまでも残っているのだ。


※栄養学的な、食品のエネルギー価を表す「カロリー(Cal)」は、呼び名は同じだが物理化学で使われる「カロリー(cal)」の千倍の価値を持つ別の単位である。区別するために大カロリーとも呼ばれ、最近はkcalと書かれることが多い。SI単位である「ジュール(J)」とは、1kcal=約4200Jの関係にあり、単位統一の観点からジュールで書くのが望ましい、とされているが、食品などにはまだカロリーが普通に用いられているようだ。ともあれ、この文で出てくる「カロリー」は、すべてkcalを単位としている。
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