だってしょうがないじゃない

 しょうが湯を飲め、と言われたのである。大腸検査の一日前のことだ。

 以前、入院の話をしたから、話が前後することになるのだが、去年の夏ごろ、食前食後にキリキリと腹が痛いことがあって、医者に行ったら「精密検査をしましょう」と言われた。こちらは、鎮痛剤か何かを処方してもらって、あとはビフィズス菌入りヨーグルトでも食べて安静にしてください、と言われるのを期待して医者に行ったので、正直言って面食らった。虫歯で例えると、詰め物が取れたので付けてもらいに行ったら「この歯はもうダメなので抜きましょう」と言われたようなものである。ノートパソコンで例えると、フリーズが頻発するのでショップに持っていったら「マザーボードを取っ換えましょう」と言われるようなものかもしれない。バレンタインデーで例えると「そういえばもうすぐ二月一四日だね」とふと話題にしたら「前から思っていたんだけどキミ、鼻毛が伸びてるよ」と言われるようなものであると思う。とにかくそれくらいのショックであった。

 医者の言うことには、腸の検査は二通りの方法がある。一つはレントゲン検査で、バリウムを腸管に入れ、エックス線を使って透視撮影することで腸の様子を見る。もう一つは、大腸ファイバースコープというものを体に入れ、内側からカメラで腸壁の様子を撮影する。もし本当に病気だったとして、はっきり分かるのは後者だが、患者の負担としては前者の方が遥かに楽だ、とのことであった。私は迷わず前者を選んだ。

 腸を検査するとなると、そこに何か入っていてはしょうがないので、三日ほど前から食事内容に制限がある。消化に悪い食べ物、ゴボウとかレンコン、タケノコのような繊維質のもの、フライや唐揚げのような油ものがまず禁止され、そのあと、お粥やうどんのような炭水化物だけの食事になり、前日夜になると、水のほかはほとんど口にできなくなる。徐々に食事の内容を変化させて行って最後には絶食する、というと思い出すことがあって、むかし、小学校の図書館で読んだのだが、この次の段階は地面の下に空気穴だけ空けて埋めてもらうのだ。穴の中で、手にもった鈴を鳴らし続けるのだが、それが聞こえなくなると、立派な即身仏ができるのだ。確かそうだ。

 そんなものを作られてはたまらないが、とにかくそんなひもじい三日間であった。三日目には空腹のせいか鼻が非常に敏感になって、遠くのカレーパンもすぐかぎ分けられるようになっている自分に驚いたりしたのだったが、三日目の昼は「すうどん」しか食べてはいかん、ということになっている。カップ入りの「どん兵衛きつね」を買ってきて、中から「おあげ」と「ねぎ」を取り除いて食べた。たいへん侘びしかった。これで次の日の夕方まで何も食べられないと思うとよけいに心細かった。

 しょうが湯を飲めと言われていたのは、その晩のことである。病院からの指示によれば「重湯」や「葛湯」と呼ばれる何物かでもいいことになっているのだが、そもそもそれが何だかもよく知らない。どうやって作ればよいやら、そんなことはすがすがしくわからない。かろうじてしょうが湯は飲んだことがあるのでそれを飲めばいいわけだが、もちろん買い置きなどない。昼でさえあんなに腹ぺこなのである。夜、何も飲めないとなると、とても次の朝起きて病院までたどり着ける自信はない。自室でミイラとなって発見されるのを避けるため、何としても「しょうが湯」を作らねばならない。私は、空腹を抱え、近所のスーパーを訪れた。

 異様に鋭くなった私の鼻が刺し身パックの香りまでかぎ分けることに感動しながら、それらしい棚を探し回ること五分。しこうして見つけたのが「生姜入りカネボウ金柑湯」であった。ありがとうカネボウ。君は私の命の恩人だ。素晴らしいぞ生姜入り、と、私は、気がついた。「生姜入りカネボウ金柑湯」って「金柑」とは何だ。何と読むのだ。

 要するにこれはしょうが湯ではなく、金柑湯の素である、ということなのだろうか。第一、金柑入りしょうが湯と、しょうが入り金柑湯はどう違うのか。私は、製品の裏の原材料からなにか情報が得られないかと、ひっくり返して眺めてみた。そこには、こう書いてあった。

「本品のほかに葛入カネボウしょうが湯・生姜入りカネボウ檸檬湯があります。ぜひお試しください」

 この中で医者の指示に一番近いのはなんなのか。しょうが入り葛湯と葛入りしょうが湯は違うのだろうか。レモン湯と金柑湯ではどっちが体にいいのか。金柑湯は「生姜」なのに葛入りカネボウしょうが湯だけは平仮名表記なのは何か意味があるのか。いちいちカネボウと商品名に挟むのはそれはマイクロソフトエクセルみたいなあれか。と、釈然としない気分を抱きつつスーパーの棚を見回す私だったが、そこには「葛入りカネボウしょうが湯」も「生姜入りカネボウ檸檬湯」もなく、ただ風が吹いているだけだったので、私は悄然として「生姜入りカネボウ金柑湯」を買って、お家に帰った。

 その晩飲んだ金柑湯は、どこかしょうが特有の、喉を引っかく感じがする、甘ったるい飲み物だった。別に空腹は癒されはしなかった。せめてがぶがぶ飲んでやろうと思っていたのだが、あまりおいしいものではないので、それもやらずに終わった。それが狙いではないかとも思う。

 なお、次の日の検査の結果「レントゲンではやっぱりわからないので、ファイバースコープで再検査」ということになって、翌週、またも三日間食餌制限を受けるハメになったのだが、それはまた別の話である。


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