不幸中の幸い

 機会があったら注意してみて欲しいのだが、不動産屋で、部屋の紹介をしてもらっているときなどに周囲を見回すと、決まって、よく見えるところに「我が社の理念」というものが掲げられている。もしかして、大抵の会社ではそうであり、不動産屋はたまたま個人顧客がオフィスに通される珍しい商売だから、ということなのかもしれないが、まず「顧客の満足が我が社の目標であると心得よ」といった言葉がイの一番に掲げられている。

 皮肉な見方だが、もちろん、そうして掲げておかねばならないのは、それが自然に達成される目標ではないからだろう。考えてみると、喫茶店やレストランのような商売と違い、同じお客さんが同じ街でまた引っ越しをして、同じ不動産屋に二回も世話になるということはあまりない。部屋を紹介して、案内して、契約を結んでもらうまではこぎ着けなければならないから、必ずしもお客をないがしろにしてもやってゆけるということではないが(競争相手もいる)、不動産屋にとってより「濃い」付きあいになるはずの地主と天秤にかけて、自然とお客の利益は軽視されてしまうものかもしれない。

 企業の目的と、消費者の利益は、業種にとって一致している場合もあれば、そうでない場合もある。たとえば、食べ物の会社は、消費者にできるだけたくさん買って欲しいわけで、そのために味を工夫したり安くしたりして、消費者にすぐれた商品が届けられることになる。しかし、宣伝に金をかけたり、わずかな健康への不安につけ込んで栄養を誇張したり、原料や製造工程で手抜きを行ってコストを削減しても企業は利益を出すことができて、こうなると会社が公共の福祉に奉仕しているとは言えなくなる。

 それでも食べ物なら「まずいから食べない」という選択基準が消費者に与えられているからいいのだが、たとえば歯ブラシの善し悪しを考えると、どう判断すればよいのか、悩ましいところである。歯を磨かないと虫歯になるので、歯磨き会社と消費者の利益はそこで一致しているわけだが、逆に言えば虫歯などというものは磨いてさえいれば防げるものであり、A社のではなくB社のものを使ったからといって別に虫歯が増えるということはない。そこで会社の思惑と買い手の利益は不気味なキシみを見せはじめる。本当に、我々のためを思って歯ブラシは作られているだろうか。

 企業と顧客の利益が一致している、むしろ珍しい例は、保険会社である。健康保険は、被保険者の医療費の一部を保険から出す制度だから、保険会社は被保険者にできるだけ健康でいてほしい。加入者のほうは、もちろんできるだけ健康でいたいわけで、何も好んで保険会社に損害を与えたいわけではない。両者の思惑は完全に一致する。健康保険にはなかば強制的に入らされるから普段あまり感謝することはないが、素晴らしい仕組みだと思う。

 私も、保険に入っていてよかった、と思ったことが一度だけある。学生時代、持っていたノートパソコンを、かばんから出して広げたら、液晶の中央にヒビが入ってそこから真っ黒なシミが広がっていたのだ。パソコンを使っていて、あんなにびっくりしたことはない。ノートパソコンの何が高価といって液晶が高価なのであり、修理となると費用は十万円を超える。あわれ私のパソコンライフも一巻の終りか、と数日悩んでから、買ったときに動産保険に入っていたことに気がついたのだった。割れた状態を撮影した写真と修理証明書を保険会社に送って、修理費を全額出してもらった。入っていたことを忘れていたのでなおさらそうなのだが、自分はもしかして予知能力者じゃないかと思った。

 この動産保険は、本人の過失に対して保障するというものだった。私が落として壊したり、私が上に座って壊したりと、そういう故障には保険が降りるのだが、地震や雷などの自然災害はともかく、普通の機械的電気的故障でも、保険金はもらえないというものだったのだ。普通、電気製品を買ったときにメーカーがつけてくれる保証の無料修理は「普通に使っていただけなのに壊れました」という、本人に過失がない場合に限られるから、ちょうど、この保険とあいおぎなう関係にあるようである。

 よく考えると、本人の過失の場合だけ保障するというのも面白い条件で、本当にこれで保険が成り立つのかと疑ってしまう。保険の期限が切れるまえに、わざと落として壊し、新しい液晶を手に入れる人がいても不思議はないからだ。おそらく、そんなことをしても被保険者にたいして得るものがない(わずかに液晶が新しくなるだけだ、という)ことで成り立っているのだとは思うが、保険会社の願い(落とさないでくれ)と加入者の思惑(落としてもどうせ修理費はタダ)が、微妙に食い違う例だと思う。

 さらに、保険会社と本人の利益が正反対になる場合もあって、これは少し怖い考えになる。「年金保険」と呼ばれるものがそれで、国民(老齢)年金もそうだが、加入者が一定年齢を越えて長生きすると、生きているかぎり年金がもらえるというものである。老後に収入が絶えて、しかしまだお迎えは来ない、という未来を想像すると私も恐ろしくなるから、こういう保険の必要性は分かるのだが、問題は、この場合、保険会社は加入者になるべく長生きしてほしくない、というところにある。できれば、加入者には保険料だけ納めて、早く死んでもらったほうがよいのだ。非常に冷酷な考えだが、損得だけを考えると、そうなる。

 年金保険のある形式では、加入者が途中で死亡すると遺族に残金が払われる契約になっていて、保険会社は被保険者が早死にしても何の得もない、ということになっているようだが、国民年金の場合はそれもない気がする。私は、こういう「自分の死を願う機関」が存在することそのものに恐怖を感じるのだが、あなたはどうだろうか。


※追記。指摘いただきまして加筆訂正しました。文中の「年金保険」についてもとは「養老保険」となっていましたが、これは間違いです。なんでそう書いちゃったかなあ。
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