大単略

 なぜ駄洒落を言うのか、と訊かれると困る。

 嫌う人は非常に嫌う、この言葉の遊びを、いつごろから始めたのかわからない。会話をしていて、あるいはネット上で掲示板などを覗いていて、ふと自分が「音が似た言葉」を探していることに気が付く。なに、トンカツ。トンマツ、トンラツ、コンカツ、コンパス、ドンバス、バンマス、トータス。これはもう、半ば自動的な過程であって、思い付いたら取りあえず口に出してしまう。誰も止めないのでエスカレートしてしまい、一時は私の掲示板が「駄洒落道場」と呼ばれたほどだ。

 SF作家のアシモフが自分のエッセイで「駄洒落はそもそも面白いものではない」と書いていた。アシモフ自身が駄洒落好き、という文脈で書かれているのだが、ブーイングや冷やかしの言葉はかけてもらえるし、うまく言えば「ウーム」と唸りが出るデキのいいものもあるが、大爆笑が起こる性質のものではない、という。
 アシモフの母語はもちろん英語なので、彼の言う「駄洒落」がどれだけ日本語の駄洒落に近いのかわからないのだが、ともかく、洋の東西を越え、日本でも駄洒落を巡る事情は言われてみればその通りである。うまい駄洒落に出会うとある種の痛快さを感じるのは確かだが、大笑いした記憶はない。いや、嘉門達夫の「替え歌メドレー」のどれかのバージョンで「カツオ風味のフンドシ」という一節に笑った記憶はある。「ボキャブラ天国」という面白い番組もあった。しかしまあ、これらは駄洒落というより替え歌であるし、歌や映像の持つパワーということもあるので、駄洒落とは別物なのだ、とすべきかもしれない。

 冷たい言い方をすれば、私やあなたが言うような(いや、あなたにこの悪癖があるのかどうか私は知りませんが)、駄洒落では、ウケが取れることはまずないのだ。あるとき気がついたのだが、そもそも笑ってもらえると思って駄洒落ってはいないフシがある。一回起こる笑いのために百万回の駄洒落を繰り返す、というわけではないのだ。本当に、なぜ駄洒落を言うのだろう。

 つたない自己分析をここで披露させてもらえれば、やはりこれは異質な言葉同士が「似た音」という一点で結びつく、その感覚を求めて、ではないかと思う。今の話題からぐんとカメラを引いて、あるいは一気の高みから見下ろすような、今までとは違う法則による連想。そして、自分の語彙の中に「バンマス」(バンドマスター)などという言葉が入っていたという、驚き。

 出来不出来を評価し、口に出すかどうかを判断するのは個人こじんの持つセンスであるとして、駄洒落を作ること自体はまったくアルゴリズム的な手続きである。おそらくコンピューターで再現できるし、実際にそういう試作機が存在するという話を聞いたこともある。もちろん「センス」こそが重要なわけだが、似た言葉を探す「スキル」のほうも、特に文字通信でない、会話の中で駄洒落を使う場合など、時期を逸せずにあやまたず駄洒落を言う、という点でおろそかにはできない。そこに、熟練すべき技術がある。

 実は、最近私は、もっと機械的な手続きを使った、別の言葉遊びが癖になってしまっている。まだ「駄洒落」のような固有の名前がつけられてはいないと思うが「略す」というのがそれだ。パソコンやエノケンのような日本風の略語の作り方、つまり「エアーコンディショナー略してエアコン」「浜崎あゆみ略してハマアユ」といった略語生産行為を、日常出会うあらゆる言葉でやってしまおう、というものである。

 これはもう、駄洒落に比べてもまったく自動的で、頭を使うところは何もない、と言っていい。スキルは何もないのだ。「横浜アリーナ」。略してヨコアリ。「さんまのからくりテレビ」略してカラテレ。「センジュナマコ」。略してセンナマ。
「いわき市で飼っている鹿が三五頭も逃げ出して、今も逃亡中なんだって」
「……」
「どうしたの」
「…略して『いわしか』か」
と、こういうふうに使う。やっていることは単純素朴で、私にも「略す」プログラムなら書けてしまいそうに思えるほどだが、これがずいぶん「見下ろし感覚」が味わえるのだ。ある意味では駄洒落を越えると言える。というのも、駄洒落はいったん自分の中で評価し、それから相手に伝えるという「タメ」があり、相手を楽しませる(苦しめる、だろうか)行為であるのに対して、「略す」は自分でも思っても見なかった単語が生産されるので、口に出してから自分も楽しかったりするのである。

 技術レベルは低いとはいえ、一応センスの入り込む余地はある。たとえば「小泉純一郎総理大臣」を略してコイジュンとやってしまうとそれは「ありふれている」と判断される(私の中にいる品質管理部門によって)。「総理大臣」のほうを略してコイソウ、とせねばならない。「阪神タイガース」は略してハンタイである。「ニューヨークメッツの新庄選手」は略してニューシンである。どっちも大敗した五月一八日であった。とにかく、これからも使い続けられるような優れた略語を「作らない」というところに意義がある、のではないかと思う。

 昔、私の父が、テレビのニュースを見ていて苦々しく、
「日本人というのはなんでこう、すぐ略すんや」
と言い捨てたことがある。「わかれへんやないか」と。安易に略語を作ってしまい、元の意味がわからない人を置き去りにする風潮を批判したものだが、それでも略してしまうのは、単語が短くなって取り回しがよくなるという理由のほか、やはり「略す」という行動自体に一種、否定しがたい快楽があるからではないか。そう、あとで使われることを意図しない、実用性を排した「略す」は、略したときの語感を楽しむためだけに略す、略するために略す「純粋略」とでもいうべきものなのである。

 というわけで、最近「どうして駄洒落を言うのか」の代わりに「どうして略すのか」と訊かれてばかりの私である。この癖、ちっとも治らないので広く知らしめてみんなでやってみれば許されるのでないかと思い、書いてみた次第。とりあえず自分の名前から始めてみよう。ジャ西拝。


参考文献:うえだたみおさんの「補陀落通信」第327回「極めよダジャレ道」。ダジャレの名手がダジャレについて語った名文。第330回「りゃくごのご」も参考のこと。
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