一六奪三進法

 二千円札をちっとも見ないと言っていたら、この週末、立て続けに三枚も手に入って、にわかに二千円札持ちになってしまった。これまで二回しか見たことがないから、いきなりの新記録である。別々の店からお釣りでもらってこうなったので、もしや密やかに二千円札普及作戦が実行されているのかもしれない。

 なかなか普及しない二千円札の問題点はいろいろある。ATMなどの機械で使えない、千円札や五千円札と勘違いしたり計算違いをしでかしやすい、偽札かどうか記憶で判断しづらいなどで、しかしこれらは、要するにまだ誰も慣れていない、ということであって、少なくともこのことで二千円札を責めるのは酷だ。じっくり時間をかけて焦らず騒がず流通させてゆけば、いずれ時が解決する問題ではないかと思う。ただ、根源的に、二千円札があったほうが便利かどうかというと、まだよくわからない。あってもいいが、無くてもいいかと思ってしまう。

 そもそも、どうして一と五がお金の基数として選ばれているのだろうか。枚数が多くなると間違いやすくなるから、一円玉を何千個と数えなくて済むよう、まず各桁に一つ、一、十、百、千、万という貨幣は必要だろう。ここで疑義を呈したいのは、この次にどうして「五」を選んだのか、ということである。

 五は一と十の間であるから(一と十を足して二で割った値に近いから)真ん中をとったのだ、というのが普通の答えだと思うが、そもそも、一、十、百、千、万という各単位は等間隔に並んでいるのではない。前の数の十倍、という関係で、間隔は前の十倍にそれぞれなっている。難しく言うと対数目盛りの上で等間隔に並んでいる数列である。
 たとえば十と千の間には、両者を足して二で割った五百五ではなく、百が来る。これは二つを掛けて平方根を取った値である。これを敷衍して考えるなら、一と十の間に置くべき数は、二つを掛けて十としてその平方根、およそ3.16という値でなければならない。

 といってもちろん、三一六二円札(三一六二円二七銭と半端が少し…札)というのは常軌を逸しているが、考えてみると、五千円だって決して千と一万を足して二で割った値ではない(五五〇〇円札ではない)。妥協して三千円札ということになる。三なんて二よりも使いにくいんじゃないか、と思ってしまうが、よく考えてみると、これが結構具合がいいのである。

 まず、各桁を表すのに最大限必要な紙幣(または硬貨)の数が少なくなる。千円から九千円まで順に出してみると、八千円が三千円札二枚と千円札二枚で、これが最大枚数になる。一と五方式では最大五枚いるところ、四枚で済むのだ。現状、一と二と五があれば千円から九千円まで最大三枚で出せるようになるのでそれよりは多いが、一と三は紙幣二種類でこれを達成しているところに注目されたい。

 また、一と五方式ではどうしても、五の貨幣があまり使われない傾向にある。つまり、普通に暮らしていると千円札が最高四枚手に入るのに比べて、五千円札は一枚だけ、あるかないかどちらかであることが多い。これが一と三式では千円札が最高二枚、三千円札が最高三枚と、どの貨幣もだいたい同じだけ使われる機会があることになる。一と五では主は一で五は補助的な地位に甘んじているが、一と三では両者は対等に近い関係にあるのだ。これは生産量や流通の面で利点が多い。新渡戸稲造って誰、などということにならずにも済む(たぶん)。

 さらに、だんだん重箱の隅を突っついている感じになってきたが、三という数字が一般的に縁起がよい数字である、とされていることにも注目したい。結婚式のお祝いに四万円持っていったりするのは気が引けるが、三万円札一枚、という配分は気が利いているのではないだろうか。実際、一万円以上の高額紙幣が導入されないのは、次が五万円、となるとお祝いや香典が五万円に統一されてしまってタイヘンであるから、という理由がまことしやかにささやかれているが、三万円なら、キヨスクやコンビニでもお釣りが何とかあるだろうし、ちょうどよいのではないだろうか。

 政府は、二千円札と五千円札を廃止して、三千円札を作るべきである。ついでにケチがついた五百円や、どうも百円玉と間違いやすい五十円玉、黄色くて品がない五円玉も廃止してしまって、三百円玉、三十円玉、三円玉を作るべきである。五百円から三百円になるとうま味が減って偽造する人もいなくなるやもしれず、一石二鳥である。形は角を丸めた三角形がいいと思う。

 二千年の熱狂が終わり、次に来る波は当然「三」でなければならない。三の時代の波はもうすぐそこまで迫っているのだ。二千円札問題にとらわれている場合じゃないぞ。


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