ツーとカ−

 知らないでいればそれなりに幸せでいられたのに、一度気が付いてしまうともうどうにも気になってしょうがない、ということはある。あるというよりは、だいたいにおいて私の行動パターンというのはそればかりなので、このことをあまり追及するとこのページの存在意義そのものが疑われることになりかねないのだが、今回もその伝でーについての話だ。いやだからーのことだ。ーである。つまり、バターやサッカーやジェイコブズラダーのお尻についている「ー」だ。この棒、長音符号が、最近気になってしかたがないのだ。

 先週のこと、上司からメールをもらった。メールにはファイルが添付されていて「こういう文書を上に提出しようと思うが異論はないか」とあった。仕事の進捗状況や作業上の注意といったことを記録のために残しておくための書類なのだが、問題はその中の一文である。「マイナス三〇度で冷凍保存」というところ「ー30℃」と書いてあったのだ。このカッコの中の最後の文字、なんと機種依存文字ではないらしいのでそのままコピーしてしまうが、念のため書いておくと「度C」という記号である。しかし、ここで言いたいのは℃ではなく、前のマイナスのほうだ。−30℃の「−」が、引き算記号ではなく、オバンドーのお尻の伸び棒になっているのである。

 長音符号「ー」とマイナス「−」は、似ているが違う文字である。環境によりフォントにより、いったいにこのへんの機微が伝わるかどうか不安なのだが、私が見たところ、長音符号は左端が少し持ち上がっていて、にやりと含み笑いしているように見える。ニヤリ三〇度、トニヤリソニヤリシンである。文字の形が似ているというほかに、キーボードで同じキーに割り当てられているというのが問題の本質かと思うが、もしかして上司の環境ではこれらが画面上で区別できないのかもしれず、私はそんなマシン買い替えなさいせめて表示フォントを変えなさいと忠告したいところなのだが、上司は私のボーナスの裁量権を握るヒトでありその書類には他の変なところはどこにもないので、言いだすべきか否か多いに悩むところなのであった。

 そういえば、漢数字の「一」も長音符号やマイナスと取り違えやすい記号である。今度こそ私も長さ以外区別のつけようがない。ただ、「いち」か「1」と入れて漢字変換しなければ出ないので、間違えやすいか、社会生活における落とし穴になっているかというとそこまでは行かないような気がする。むしろ目に付くのは漢数字の「二」とカタカナの「ニ」である。「に」と入れて変換するとこのどちらも出てくるからだろう。たとえば「ニ進法」と見るとつい「ニ短調」を思い出してしまうのだが、横棒が長いか短いかくらいのことでちゃんと違和感が感じられるのは不思議なことである。

 ややこしいことに、横棒界にはさらにもう一つ「ダッシュ」という記号がある。「サトルは――内心では思うところなくもなかったが――黙ってアキコの目を見つめ、そしてうなずいた」などというときに使う記号で、この「―」は長音符号でもマイナスでも1でもない。区点01.29にある、飾り気のない長い棒だ。これはどうもそれ専用であるらしく、ほかに使い道を知らないのだが、そういう文字をしかし二回使わなければダッシュを表現できないというのが人生の長く辛いところである。

 コンピューターの表現力が、文字幅が自由になる「プロポーショナルフォント」を許すようになって久しい。特にウィンドウズの日本語フォントは一部、これはプロポーショナルと呼ぶべきか、ひらがなでも一つひとつ幅が異なる(「し」のほうが「み」よりも細い)という、どう考えてもやり過ぎなことになっているくらいなので、それなら一文字で「――」を表現できる幅の広い文字くらいあってもいいのではと思ってしまう。例によってフォントにより環境によりこのへんの機微が伝わるかどうなのかであるが、私が見るところ――は途中が一ヶ所わずかに切れていて、いつもそこに何とも言えない心のすき間を感じるのだ。

 先日、あるラーメン屋に行った。これは看板がいっぱいあった例の店とは別の店なのだが、メニューの表紙に経営者の口上が書いてあって、そこに「くーーーーーーーーたまらない、と思ってもらいたくて」とかなんとか、そういう一文があった。メニューだけでなく、壁にも大きく「くーーーーーーーー」と書いてあったので、わざとしていることには違いない。この伸び棒が、ワープロやパソコンで打ったらそうなるように、つまりあなたが今見ているように、ぶつぶつ切れているのだ。ラーメン屋がポスターやメニューの制作を発注する先は街の印刷所か広告代理店か、とにかく何らかのプロだろうと思うのだが、どうしてこんなことになってしまうのだろう。

「くーーーーーーーー」は落ち着かない。むしろ腹立たしい。「くー」と長く吐息を漏らしているというよりは「くーうーうーうーうーうーうーうー」とぶつぶつ切れた声を頭の中で再生してしまう。全音符一つではなくて、八分音符八個だ。確かに、伸ばす長さによってちょっとずつ違ういろいろな活字を、たとえば「二文字分長音符号」「三文字分長音記号」と用意してゆくことは容易ではないだろう。だからワープロでは時にそうなってしまうのはわかるのだが、極端な話、文中に一ヶ所くらいのことなら、ベジエ曲線にして適当に引っ張り伸ばせばいいのであって、印刷されたメニューやポスターでこれをやってしまうのはやはりプロの仕事とは言えないのではないか。少なくとも、私が発注側だったら、こんな仕事をされたら黙っていないと思うのだ。

 漫画のフキダシを観察すると、こういうとき「〜」に似た波線を適当に切って使っているようだ。「ー」を伸ばしたり縮めたりするより、手間が少なくいろいろな長さにできるからかもしれない。今ここで再現を試みると「く〜〜〜〜〜〜〜〜」だが、「くーーーーーーーー」よりは途中の切れてる感が少ない気がする。ただ、こっちは「くぅうぅうぅうぅうぅうぅうぅうぅ」とビブラートがかかっているような雰囲気なきにしもあらずなので、どっちがいいかはわからない。

「ジョジョの奇妙な冒険」の作者荒木飛呂彦は、かつて自分の漫画の登場人物に「URRRRRRRRY!」という奇声をあげさせたことがある。アメコミ的な手法なのだろうか、なにしろアメリカには長音符号のような便利なものはないわけで、ひたすらアルファベットを並べるしかないのだ(と思う)。ただ、たとえばこれをアニメ化して、口に出して言ってみた場合、もしかして長音符号を使って「ウリー」と言っているのとあまりかわらないのではないかと思ったりもする。もちろん「ウリ〜〜〜〜〜〜」ではむしろ「かってにシロクマ」になってしまうので、この迫力ある表現の導入は彼の天才を表すものだろう。

 では、かのラーメン屋は「KOOOOooooたまらないと思ってもらいたくて」とすればよかったかというと、それでは、ラーメンが迫力負けしてしまうので、やはり「くーーーーーーーー」で十分かもしれない。そもそも、荒木飛呂彦とおいしいラーメンほど合わないものもそうはないと思うしねー。


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