似ている二人

 考えてみるとあのときはまだ私は大学生だったから、平成がようやく保育園に上がろうかどうかの頃ということになる、ある日のこと、私の近所のコンビニで、おにぎりが変わった。おにぎり内部ではなく、おにぎりの包装方法、どういうかたちで消費者のもとに届けられているかという、その方式が変わったのである。

 着実な進歩を続ける現代社会において、このときばかりは、使いやすく食べやすく改良されたというものではなかった。それまでのコンビニおにぎりの開封方法、三角のおにぎりの頂点の一つから、海苔とおにぎり本体を隔てるフィルムを引っ張り抜く、という簡便な方式が、いったん隔離フィルムごと海苔を広げておにぎりを取り出したあと、あらためて海苔で中身を包んで完成させるという、おそろしく迂遠な方式に変更されたのであった。おにぎりからこの「隔離フィルム」だけを抜き取るという行為は、セーターを着たままシャツを脱ぐような、あるいはパンツの上から海パンをはいてパンツだけを脱ぐような離れ業であって、実現にはある種の困難がつきものではあるのだが、それにしても大幅な退歩である。

 わざわざ不便なように改良するとも思えないので、この一件はどうも、特許とか知的財産所有権とかいったことに関連してのやむを得ない措置だったようだ。それまでおにぎり包装方法でコンビニが結んでいた許諾契約が切れたのか、それとも無断で使っていたところをついに訴えられてしまったのか、いずれそんなところだと思う。

 この訴えで本来のおにぎり開封パテントを所有している団体または個人が、どういう得をしたのかは知らない。私に関してだけ言えば、いわば「私シェア」はなんといってもそのコンビニが握っており、それはおにぎりの包装方法などというささいなことで揺らぐようなものではなかったから、食べにくいなりにちゃんとおにぎりを食べていたような気がする。どうしてかというとぼくはおにぎりが好きなんだな。結局そのコンビニのおにぎりは元には戻らなかったので、和解には至らなかったはずである。

 そんな青春の記憶も遥かに過ぎ去り、ITの時代がやってきた。ミレニアムエディションであったりエックスピーであったりする今となってはどうでもいいことのように思えてくるが、マイクロソフト・ウィンドウズの、そもそもの画面デザインが、マッキントッシュのそれを多く参考にして作られたことは今一度思い起こされていい事実である。

 あなたがまずマックを使い慣れていたとして、ウィンドウズに切り替えてみるとすぐ気が付くのは、似ているが違うということ、さまざまな、本当にささいな事どもがことごとく反対になっているということである。スタートメニュー(アップルメニュー)の伸長方向、デスクトップ上での、本当は半角カタカナの「マイ コンピュータ」(ハードディスクアイコン)が置かれた位置、ウィンドウを閉じるクローズボックスの配置など、どうしてこんなにと思うほど、ことごとく食い違っている。

 これはたぶん、意図した上でわざとそうなっているのであって、当時マイクロソフトがアップルと裁判で争っていたことの影響の一つなのだろう。画面上のさまざまなアイテムの場所をわざわざ変えて設計することで、ウィンドウズはマック用OSのマネではない、と証明する必要があったのだと思う。これはもう、どちらが偉い、どちらが悪いという問題ではなく、ただ時系列的な差、あとさきがあり、先行者が後進に真似されることを快く思わなかっただけだ、といってしまえるかもしれない。

 しかし、これはマイクロソフトにとって、またその製品を使っている多くのユーザーにとって不幸なことに違いない。ささいなこととはいえ、何かしら理由があってそうなっていたはずの配置を「マックと違える」という目的のために反対にすることで、少しずつ使いにくく変えていることになるからだ。一度こうなってしまうと、仮に将来アップルとマックが完全に消滅してしまったとしても、もうマイクロソフトが最善を選ぶことはできないのではと思う。電子と電流の流れる向きが反対であるように、あるいは西日本と東日本で家庭用電源の周波数が違うように、一度決定したものは変えるのが難しい。

 使い慣れれば何でも同じだ、という主張はあるが、たとえばクローズボックスの位置である。ウィンドウズではウィンドウを閉じるボタン、ウィンドウを一時保留して画面から消すボタン、ウィンドウを画面いっぱいに表示するボタンが並んでいる。これはよくないデザインである。そもそも、似た機能を一つところにまとめようという発想が、気持ちはわかるのだが、良くないことだ。そのうち一つが「ウィンドウを閉じる」という、時には取り返しのつかなくなるボタンなので余計である。

 エレベーターに乗って、扉が閉まりそうになったとき、向こうから走ってきた人に気が付いて慌ててボタンを押す。こういうとき間違えて閉じるボタンを押してしまうことがあるのだが、これは似たボタンが似た形で並んでついているというのが原因の一つだと思う。押せないと怪我につながりかねない「開」ボタンに比べ、「閉」ボタンは見つかりにくく押しにくくてもいっこうに構わないボタンなのだから、なにも並べて置かなくてもいいのである。

 余談だが、昔漢字を作った人も、この似た意味に似た形を与えるという間違いを多く犯している。開と閉のほか、右と左、幸と辛、怒と恕(ゆるす)などは、もう少し別のデザインにすべき漢字だったと思う。和語でも「かってくる」と「かりてくる」など、ややこしくてしょうがないのだが、英語でも不思議と「bought」と「brought」なので、もしかして購入することとパチってくることは人間の性質に深く根差した類似点があるのかもしれない。ごほん。とにかくこれらは、いまさらどうしようもないが、もし言葉をゼロから新しくデザインするとしたら、それぞれ大きく変えてしまいたいところではないかと思う。

 そのコンビニのおにぎりは、ほどなくまた別の方式に切り替わった。テープを引っ張って外装フィルムを二つに分割して、両側から引っ張るという方法である。これは改良だった。廃止された最初の方法に比肩しうる程度には便利である。おにぎり問題には第三の解決方法が存在して、私や他のそのコンビニ利用者が不便な思いをし続けずに済んだわけで、まずはよかったというべきだろう。マイクロソフトにも、よりよい方式を追及して欲しいと本当に思う。よく考えて、考え抜けば、アップルと似ていない、しかしうんと使いやすい、いや、少なくとも同程度には使いやすいインターフェースはきっと存在するはずだから。


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