裏側に何かがある

 さてお盆である。ご存じかどうか、お盆は正式には「うら盆」といって「お盆」はその略である。ウラボンとはまた、お盆に隠された恐るべき秘密というべきであり、感想を言わせていただけるなら「うらぼんな感じだ」としか言いようがなく、これで「うらんぼうらんぼ」と踊りだしたい私の気持ちがあなたに伝わると嬉しいのだが、なにしろ会社の盆休みが今日から始まって嬉しいので君もまあ飲め。ぐっと。

 しかし、この「うら盆」、あまりにも人口に膾炙してなさすぎているので、「うら盆にはふるさとに帰ってきます」と宣言した場合、何者だお前はということになりかねない。普通のお盆は家で寝て過ごし、他人がふたたび社会人として世界と戦いを始めんとするそのときに楽々時差帰郷するつもりではないかと疑われたりするのである。ちくしょう一人だけで裏側を楽しみやがってなのである。

 実のところ、この「うら盆」という言葉は、梵語の「ullambana」の音を写したものであり、従って「盂蘭盆」という漢字にも(「亜米利加」とか「夜露死苦」のようなもので)意味はない。原語のullambanaを日本語に訳すと「逆さ吊りされて苦しい」であることを書いても誰も信じないかと思うのだが、本当なので君もぜひ辞書を引いてびっくりして下さい。そんな恐ろしげな行事をやっていていいものかと思うが、要するに「おもて盆」などというものはないし、「うら若い」の「うら」や「ウラジオストック」の「Vla」とも違う。そんな裏盆なのだった。

 以上は実は前置きである。裏とか表と言いだすと、大体において持ちだされる話題が「メビウスの輪」である。今回はこのメビウスの輪について書きたかったのだ。いつものようにイチから説明を始めたいところなのだが、さすがに「メビウスの輪」を知らない人がこんなところを読んでいない気がするのでたいへん気が引ける。そこを酔った勢いで書いてしまうことにすると、細長い紙の端を半回転ねじってくっつけたものである。ああ、書いてしまった。恥ずかしい。

 ついでなのでもう少し書く。「メビウスの輪」という名前にはなかなかインパクトがあって、これに匹敵するものというと「クラインの壷」とか「ラプラスの魔」くらいしか思い付かないのだが、これと、図形の面白さに加えて、ごく簡単な工作で作ることができるというのが、この輪の作り方を広く知らしめる上で有効なのだろう。帯の中央をハサミで両断しても二本の輪にならず、繋がった長い輪ができるというわかりやすい面白さがあって、確かにちょっとした話題として扱いやすいものになっている。

 さて、このメビウスの輪を説明するときに、非常にしばしば「裏も表もない」という表現がされる。確かにそれでなんとなくわかった気になれるのだが、どうもこの説明、どこかがおかしいと思えてならない。本当にメビウスの輪には、表も裏もないのだろうか。

 考えてみれば、普通、紙の表裏というと、何かが書いてある面とそうでない面、という意味である。たとえば、テストの問題用紙が机の上に、見えないように伏せて置かれている場合、それは「裏返して置いてある」のであって、表が真っ白で裏に問題が書いてある、という考え方はしない。試験が始まると、生徒は紙の表側を見て問題を解き始める。

 要するに、紙の裏と表は、書いてある内容によって恣意的に決まる問題であって、今こっちを向いているほうが表、というものではない。真っ白な紙やノートのような両面を使う紙は「裏も表もない」ということになる(※)。そうではないだろうか。

 こんなことは言葉の遊びであって、数学的に理想化された紙で理想化した方法で作ったメビウスの輪には、本当の意味で「裏も表もない」のだ、という意見もあるかもしれない。紙を使うから「裏」と「表」に変な意味ができるのだ、実在の紙をひねってセロハンテープでくっつけるから「紙における裏と表」ができるのだ、と。しかし、こう考えてみよう。
 1.裏と表が、どちらがそうとも定義できない平面があって、それをねじってくっつけて作ったメビウスの輪。
 2.裏と表が定義された(たとえば色分けしてある)平面があって、それをねじってくっつけたメビウスの輪。
このどちらも「裏も表もない」と表現するにはやや辛い代物である。

 まず1は、最初から「裏も表もない」。仮に「今見ているほうが表」と考えたとしても、見ている人によって「こちらが表」「こちらが裏」という意見が異なり、一定した見解は得られない(そういうものだと定義したのだ)。裏と表が区別できないのだから、メビウスの輪にしても「裏も表もない」のは当然である。では、2のほうはというと、ねじってくっつけたところで、明確に「表」から「裏」へのジャンプが存在する。誰が見てもそこで境界になっているのであって、さしたる不思議ではないし「裏も表もない」とはちょっと言えない。この青いところが裏、ここから先の赤いところが表などと言ってしまえるからである。

 数学的にはメビウスの輪のような図形の定義としては「パリティが保存されない面」と考えるべきであると、何かの本で読んだことがある。たとえば、ある図形が透明なセロファンで作ってあったとして、右巻きの渦巻きをそこに書く。この渦巻きを面の上にいろいろ動かしてみて、元にもどしたときに反対巻きになっているような移動方法がある、メビウスの輪とはそういう図形である、というものだ(よく考えてみて欲しい)。これは確かに厳密ですっきりした説明なのだが、イメージするのがやや難しい。

 結局「メビウスの輪」を一言で言い表す場合は「紙のふちを乗り越えないで、紙のある地点からその裏面にたどり着ける」とでも書くのがよいのではないかと思う。上の2において、表側から裏側に、図形のふちを乗り越えないでたどり着ける、というのは確かだ(途中、不連続なところがあるとしても)。ややこしいことを言うようだが、表も裏もと言ったときの引っ掛かりをなくすには、このくらい言わないといけないような気がするのである。あるいは「表と裏が地続きになっている」とすれば簡単で、かつ誤ってもいないと思うのだが、これは、作り方を見るとなんだか当たり前のことを言っているだけなので「どうだいエヘン」感がはなはだしく減退するのであった。数学は簡単でも、言葉は難しい。


※ただし、本当は何も書かれていない真っ白な紙でも一応、裏と表はあって、これは紙を漉(す)いて作るときの都合で、滑らかな面とそうでない面ができるからだ。筆記具の滑りがいいように前者を表と呼んでいるのだが、どういう製法なのか、両面ともつるっとしている紙も確かにある。この場合もやはり、裏も表もないと言えるのかもしれない。
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