バッタは壁を登るか

 仮面ライダーはバッタの能力を移植した改造人間なのだそうで、バッタの跳躍力を生かした必殺技こそがライダーキックなのだということを、私はつい最近まで知らなかった。私は、一般にアニメに比べて特撮物には疎い小学生だったもので、実はウルトラマンも仮面ライダーもちゃんと見てはいなかったのである。なぜか唯一、ゴレンジャーは見ていた。コミカルだからだろうか。

 あらためて言うまでもないことだが、バッタやノミが自分の身長に比べて恐ろしく長距離を跳躍したり、アリが自分の体重の何倍もある食べ物を持ち上げるというような昆虫の能力は、大部分、彼らの体が非常に小さいという、そのことから来ている。体重は体積だから体長の三乗に比例するが、筋力に関係する筋肉の断面積は、面積だから体長の二乗に比例するので、体が小さいほど出力余裕が大きくなり、より高い運動能力を発揮できるようになるわけだ。だから、バッタの能力を人間に移植することは原理的にできないということである。

 そういう目でみるとスパイダーマンというのも、あれは別にクモの能力を移植したわけではないと思うが、本物のクモとは違った原理で壁にはり付かざるを得ない。クモが壁や天井を歩けるのは彼らが小さい生き物だからで、あれを人間がやろうと思うと大変でござるよケンイチうじ、なのである。もっとも、いくら小さいからといって、支えなしに滑らかな天井に立つのは物理的に不可能だと思うが、クモのスケールで見ると、天井というのは結構でこぼこしていて、足を引っかけるための場所にはことかかないのかもしれない。これも体が小さいことの一つの利点ではある。

 これに関連して、どこかで読んで覚えている微妙な豆知識の一つに「刑務所の壁にはカドがない」というものがあった。刑務所は高い壁で囲われているのだが、そのコンクリートの壁は、四隅がカドではなくてゆるい曲面になっている。なぜかというと、九十度の角の内側は、手足をつっぱって体を支え、登ってゆくことができてしまうのだ。脱走されないように、角を丸めてあるのだそうである。

 改めて考えてみると、そうやってムニムニと壁を登るというのは結構凄いことではないかと思うのだが、本当にそんなことが技術的に可能なのだろうか。どうも、ちょっと想像した限りでは、角に手を突っ張っても体を支えたりできないような気がする。もっとも、ほとんど平行な壁が並んで立っているすき間を登れるのは確かだから、どこかに交わり角度の限界があるはずである。

 手なり足なりを斜めに壁に押し付けると、壁から受ける力は壁に垂直な方向の抗力と、壁に平行な摩擦力である(摩擦力は抗力に比例する)。ここのところ、図を書いてよくよく考えてみたが、つまるところ、この問題は手が滑る原因となる力の平行成分を、摩擦力で支えきれるかどうか、という問題のようである。壁の交わる角度が浅くなるに連れて、平行成分が急激に増加するのに比べて垂直成分はどんどん減ってゆくので、摩擦力が減り、限界を迎えるわけだが、特に九十度に境界線があるわけではなくて、ざらざらした(摩擦の大きい)壁が凹面に交わったところがあり、十分な力を発揮できるなら、登れてしまうようである。

 とすると、無限の腕力を仮定すれば、刑務所の壁を角をいくら丸くしても登れる人は登れるということになるのだが、それを言えば無限の力で壁をジャンプして越えるなり壁を壊すなりすればいいのであって、畢竟、どの程度の腕力が現実的か、という問題になるのかもしれない。

 さて、こんな話をしたのは、この原理を利用した棚、というものを発見してしまったからである。そもそもの発端は、遊びに行った友人の家のトイレに、棚が吊ってあったことである。この棚というのが、まさにこの刑務所の壁登り原理を利用した、九十度の角に突っ張って支える棚なのだった。厚さ三センチくらいの樹脂製の、直角二等辺三角形の棚が、一見なんの支えもなく、トイレの壁の角にくっついて、頑としてその地位を主張している。天井に貼り付くクモのように、角で自重を支えているのだ。

 聞いてみると、借り家なので釘を打ち込めないのでこれを買った、ということなのだが、見たところ、棚をこう、角に対して引っ張ると簡単に取れてしまいそうで、上になにか物を置いても大丈夫だというのが信じられない。棚板にはなにか機械的な内部構造があって、ねじを締めることで足を突っ張る力を増すことができるようになってはいるのだが、どう考えてもあぶなっかしい。ゴム足かなにかをぐいと突っ張ることで自重を支えられるのだろうか。下手なところに荷重をかけると、くるっとひっくり返って落ちてしまいそうに思える。しかし現実に棚の上にはトイレットペーパーやら何やらが乗せられているのである。不思議である。

 この疑問は、後日訪れたDIYショップで解決した。この角用釣り棚が販売されていたのだ。説明書きを読んでみると、確かに「釘はいっさい使いません」と書いてある。ではやっぱりこれは、摩擦力だけなのである。これは凄い。私の今住んでいるところも借り家なので、釘を使わずに棚が吊れるのは便利である。トイレには生憎この棚を設置できるような広い九十度の角がないのだが(ドアの向かいが窓だったりするから)、いずれどこかに使い道はある。

 で、買ってきて、パッケージを開けて、取り付け方の説明の最初のところを読んで、私はひっくり返った。
「まず、本製品の爪を壁にしっかり壁に食い込ませます」
 釘は使わないけど、三角形の鋭い金属の爪を壁に食い込ませて使うのだった。それじゃあ壁に傷は付くってことじゃないか。自分の計算を信じて買った私が馬鹿だった。やっぱりそんなにうまい話はないとは思ったのである。

 しかたがないので、この棚は今、本棚の内側で新たな棚を一つ作るのに使われている。本棚は自分の持ち物なので傷をつけても敷金が減ったりしないのである。そこには今「週刊デル・プラドコレクション世界の戦闘機」のスピットファイア(という名前の飛行機の模型)が飾ってあるのだが、これはダイキャストモデルなので、万が一棚が落ちてもたいてい平気だと思う。不信感は大きいのだった。


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