どこかで何かが溶けている

「何やってんの、早く」
という言葉に、私はちょっと顔を上げた。今週いっぱい、このホテルで開かれている国際会議、そのメイン会場の一つとなっているここ『多目的会議室シャクナゲの間』からは、休憩時間のコーヒーを求めてどやどやと人が出入りを始めている。朝早くから慣れないスーツ姿ですっかり疲れ切っていた私も、できれば無料コーヒーの列に並びたいところだったが、そうはイカの巨大軸索だった。なにしろ私はこの会議の客というよりは主催者側、会場の準備やアナウンスを行う裏方として、このホテルにやってきているのである。外国人日本人取り混ぜて50人あまりの出席者が泊まるこの豪奢なホテルにも、私の部屋はない。月額二万五千円のいつもの自分の下宿から、電車で一時間の距離を毎朝通っているのである。

「ほら、早くOHPを持って」
 かすかに苛立った声を上げはじめているのは、私の同僚で、研究室の仲間である安島玲子である。私と共に裏方を務めている安島は、誰もがそうであるように数多くの欠点をあわせ持つ女性であったが、その中に「怠惰」は含まれてはいない。少しくらい含まれていたほうがいいんじゃないか、と私などは思うのだが、スイッチを切ったOHPを前にただ立ち尽くしていた私の行動は、彼女の美意識に照らして、明らかに許しがたいことなのだった。

「いやそれが」
 私は安島に向かって言い訳をする。どういうわけか、もごもご、という感じになるのは私の不徳の致すところである。
「ファンがやな、まだ止まらんのだ」
 さよう、スイッチを切ったはずのOHPの冷却ファンはまだぶんぶんと回転を続けていた。セッションが終わるや否や、逆巻く怒涛のような勢いで彼女の持ち分、ブザー装置と「あと5分」などと書かれたプラカードを集め、抱え込んでいた安島は、私とOHPを交互に眺め、わざとらしくため息をついた。

 OHPを見たことがない人はそうはいないと思うのだが、とにかく説明をしておこう。OHPとは、透明なフィルムの裏から強烈な光を当て、透過光を鏡とレンズで収束させることで、フィルムに書かれた内容を壁のスクリーンに拡大映写する器械である。本来は演者と観客の間に置かれ、演者の頭越しに背後(観客から見ると正面)のスクリーンに映像が映る、というシロモノなので「オーバーヘッドプロジェクター」と名づけられた、らしい。略してOHPである。

 私が属していた物理学系の学会や国際会議では、発表の補助としてたいがいこのOHPが使われていた。写真を使うことが多いせいか、医学生物学系の学会ではスライドの映写装置が普通に同じ目的に使われているそうで、また最近ではこのどちらもが液晶プロジェクタとノートパソコンのコンビにとってかわられつつあるのだが、昔ながらのOHPにも利点は多い。まず、手書きで資料が作成できること、割り切ってしまえば発表しながら書き込むこともできる手軽さがある。滞在先のホテルの部屋、自分のパソコンやネットワークと完全に切り離された状態でも、ペンと消しゴム(アルコールを含ませた脱脂綿)を手にちょこちょこと修正を加えられるのはOHPの長所である。装置自体の普遍性も抜群で、どんなホテルでも温泉宿でも、いやしくも「会議室」と名乗る部屋を用意してあるなら、ほぼ確実にOHP装置は貸し出してもらえる。今回の会議でも、主催者として一応スライド装置を用意してはいたが、ほとんどの講演者は自国からはるばる、成果を印刷した一束の透明フィルムを持参してきていた。

そして。
「ぐー」
と、今、声にならないうめき声をあげている安島を私が恐々として見上げていることからわかるように、もちろん欠点もあるのだった。一つにはそれは、急にスイッチが切れない、ということである。OHPには、構造上強烈な光源が不可欠で、大抵は250ワットもある電球をもって光の供給源としている。250ワットというと、控えめな電気ストーブくらいのパワーで、しかも、消費電力のかなりな部分が光ではなく熱になるので、その印象はほぼ正しい。OHP装置には大きなファンが取り付けられ、使っている間中ぶんぶんとうるさく回転することでこの膨大な熱を放出しているのだが、ランプのスイッチを切った後も、しばらくこのファンは回されつづける。残った熱を放出してしまい、内部のサーモスタットが「冷めた」と判断するまで、ファンは止まらないようになっているわけだ。

私は、プレッシャーに耐えかねて目を伏せ、早く止まれ止まれ、と祈るようにファンの動きを見ていた。と、
「やっ」
 静寂を破り、突如として安島が電源コードを引っこ抜いたので、私は心底驚いた。何をするんだ安島っ。そんなことをしたら、何と言うか、ほら、まずいじゃないかクラッシャー安島。
「ほら早く、次の会場へ」
などと、何がどういうわけでまずいのか、考えをまとめるよりも先にうながされて、私は慌ててケーブルをまとめ、装置を抱えあげて、安島の後に続いた。これがまた、重いのである。
「考えてみたら、ランプを切った後に」
小柄な体にいっぱいの荷物を小わきに抱えてどんどん歩く安島が、振り返りもせずに、そう私に向かって言う。
「ファンをまわす必要なんて、ないと思わない」
 エレベーターホールで立ち止まり、ボタンを押してエレベーターを呼ぶ。私は片足を上げて、苦しい姿勢で抱えあげたOHPを持ち直して、やっと答える。
「なんで」
「ほら、こういうわけでしょう。スイッチを切るまでは、ランプが付いていて、ファンが回っている」
「ふん」
「熱と風で綱引きをしているわけ。ここで、スイッチを切ってあげると、ランプが消えて、ファンはまだ回っている。風が勝って綱は低温側に引っ張られてゆく、と」
「そやね」
 エレベーターが来た。私は安島に続いて乗り込み、もう一回片足を上げて、OHPを抱え上げ直す。重い。
「でも」
 エレベーターの「閉じる」ボタンを16ヘルツで連打しながら、彼女は続ける。
「いきなり両方切っても、温度は絶対それ以上に上がらないのよ、考えてみたら」
「はぁ」
 そんなバカな、と一瞬思った私だったが、いや待てよ、そうなんだろうか。
「ええと、スイッチを切るとやな、発熱源が無くなる。冷却源も無くなる。綱はその場に放り出される、という感じかな」
「そうそう」
「もともと、外気温よりも熱いところで平衡しとるんやから、はあん、なるほどなあ」
「あとは冷えるだけ、でしょう」
「言われてみれば、なるほどそんな気もせんことはない」
 エレベーターが着いた。開いた扉から、たっ、と出て行く安島を追って、私もホールに出る。次の会場はすぐそこ『ジンチョウゲの間』だ。既に講演者や出席者が集まり始めている。私は部屋に入り、しかるべき位置にOHPを据えると、引き伸ばした電源コードを安島に向かって軽く放る。片手で受け止めて壁のコンセントに差し込んだ若き女性物理学者に歯を見せてから、私はOHPのスイッチを入れた。ファンの回転と同時に、ランプがぱっと明るくなり、私は画面位置とフォーカスの調整を始める。どうやら間に合った。

「でも、本当に困ったもんよね」
「ま、明日になったら、大学から持ってくるらしいから」
 そう、どこでどう間違えたものやら、ホテルが用意したOHP装置が、どうしても一個、足りないのだった。幸い、ポスターセッションがあったりするおかげで全ての部屋で同時にOHPを使うわけではないので、あちらからこちらへと、時宜を逸さず装置を移動すれば、やりくりはできる。つまりそういう理由でもって、私と安島は、本来なら据えっぱなしにしておけばいいはずのOHP装置を抱えて、部屋から部屋へ、会議を追って移動する羽目になっていたわけである。

 てきぱきと、司会者と英語で何やら打ち合わせを始めた安島の姿をぼんやり見ながら、私はまたちょっと怠惰な感覚に頭脳をゆだねていた。重い荷物を持った腕が、しくしくと痛む。本当に、明日こそはちゃんとOHP装置が足りることを望むばかりである。でないと、私の腕はともかくとして、やっぱり、何かが壊れると思うのである。そして私の予感を裏付けるように、先ほど急にスイッチを切ったOHPからは、何かが焦げたような、どこか香ばしい匂いがゆったりと漂っていたのであった。


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