四次元の怪盗

 頑丈そうな金庫が中央に置かれた豪奢な一室。床には毛足の長い美しいカーペットがのべられ、天井からはきらびやかなシャンデリアが室内を照らしている。そんな中、複雑な彫刻の施されたドアや窓の周辺には、まるで機動隊のような面頬つきのヘルメットをかぶった警官隊が、ものものしく警固を続けている。金庫のそばにはただひとり、背広姿の男がどこか落ち着きなげに立っている。そこへ、扉を開け、ガウン姿にパイプをくゆらしながら太った中年の男が姿を現わす。

「やつはまだ現れませんか、警部」
 警部と呼ばれた男は、入ってきた中年の男、この家の主人の姿を認め、軽くうなずく。
「ええ、そのようです。蟻の子一匹通さぬ警備体制を敷いてはいますが、まだ情報は何も。予告の時間は迫っているというのに」
 そう言って壁の時計をにらむ警部。主人はかすかな笑いを顔に浮かべながら火の点いていないパイプを無意味にふかす。
「この屋敷の警戒ぶりを恐れて、さすがの怪盗も手も足も出ないのかもしれませんな」
「いえ、やつを侮ってはいけません。何しろ四次元怪盗を名乗るやつのことです。予告の時間までは決して気を抜いてはいけませんぞ」
 主人の笑いがかすかなこわばりを見せる。
「ははあ。そういえば、予告状を見た時から気になっておったんですが、その『四次元』というのは何のことですかな。幽霊とか、霊界とか、そういう本で見かけたことはあるのだが」
「良くない本を読んでおられますな」
 警部は不機嫌そうに答える。この質問にはもう、うんざりという様子だ。
「四次元というのは、純粋に数学的、物理的概念です。幽霊など関係ありません。そうですね、ご説明差し上げましょう。このノートとペンをお借りします」
「ふむ」

「今、我々のよって立つところの世界は、三次元空間です。縦、横、高さの三つの数字で位置が表せる世界ですね。たとえば、この部屋の大きさを表すには、間口、奥行き、天井の高さと三つの数字を書かねばなりません。これが三次元ということです」
 警部はペンで部屋の隅を指すと、縦、横に動かして見せながら、そう言った。
「まず、そうですな」
 主人はうなずく。
「しかし、たとえばこのノートの上に限るとすると、ほら、ここにこう、正方形を書きますと」
 警部はノートの空きページを開くと、中央に四角形を書く。
「ここには縦と横、二つの数字しか必要ありません。これを二次元空間というわけです」
「ふうむ。不動産のようなものかな」
 考え込む主人を置いてけぼりに警部はさらに続ける。
「仮に、この丸が」と警部は四角形の外に小さな丸を描く。「二次元空間の住民と考えてください。彼は『上』とか『下』なんていう方向があることには、一生気付きもしません。このノートの上で前後と左右だけに移動し、一生を送ります」
「それはまた、狭い」
「ええ。この場合、二次元空間の住民である彼にとって、こう、このように四角く囲んだ中には絶対に入ることができません。こっちへ回り込んでも、こっちから回り込んでも、どこからも入れない。彼にとって、この四角形は難攻不落の金庫と同じなわけです」
「飛べない虫のようなものか」
「そうです。しかし、ここに三次元の、われわれのような生き物がやってきたらどうでしょうか。われわれは、四角形の上のほう、こっちが開いていることを知っている。だから、二次元金庫の中のものを取り出すのはわけはない。ただ、持ち上げて、別の場所におろせばいいのです」
「確かに」
「しかし、彼にとっては奇跡でしょう。二次元から見れば、金庫の中からぱっと物が消えて、別の場所に現れたようにしか見えないはずだ。虫とも違って、彼は上を見上げたりできないのですから」
「…そう、なるかもしれませんな」
「そうなのです。そして、例の四次元怪盗が言っているのはまさにそういうことなのですよ。三次元空間の住人である我々がどんなに丈夫な金庫を作ったとしても、それは縦、横、高さの三つの方向を囲ったということにしかならない。四次元怪盗が侵入できるという、四つ目の方向は、いつも開きっぱなしなのです。この哀れな二次元の住民が、どんなにこの四角形の壁を分厚くしても無駄なようにね」
「ううむ。分かってきたような気がします」
「四次元怪盗は、我々の警備をすり抜けて、いつも盗みを繰り返しております。もちろん警察ではやつが本当に四つ目の次元から物を盗むなどと考えておる者はおりませんが、トリックがどうもわからない。今度こそ、警察の威信にかけて、やつの手口をあばき、逮捕せねばなりません」
 警部は、そう言葉を結ぶと、両手を広げてみせた。憤懣やるかたない、という風情だ。
「わかりました。わたしもそうなってもらわねば、困ります。なにしろこの金庫の中の宝石は、私の」
 主人が気弱そうに言ったそのとき、壁の大時計が真夜中を告げる鐘を鳴らし始めた。
「予告の時間ですな」
「はい」

 重々しく十二時の鐘は鳴る。主人はおどおどとあたりを見回し、警部もまた鷹のような目であたりに目を配っている。扉も窓も開かず、庭の剣呑なドーベルマンの吠え声も聞こえず、天井を突き破って何かが落ちてくることもなく、使用人の叫び声もあがるでなく、屋敷中が停電することもなく、主人も警部も突然マスクをとって正体を明らかにしたりはせず、窓が割れて真っ白な催涙ガスが部屋に充満することもなく、防犯カメラに怪しい人影は写らず、警官隊は持ち場を離れず、その間も金庫は微動だにせず、そして十二回目の鐘が鳴り止んだ。

 その後に訪れた、信じられないような静寂を破ったのは、主人だった。
「何事も…起こらなかった」
 ほっ、と息を抜いた気配が、周囲の警官や警部から感じられる。予告の十二時は過ぎたのだ。と、突然。どこからか軽い調子の音楽が流れ始める。
「こ、この音楽は」
 周囲を見回す主人と警部。音楽は「ピクミンのテーマ」だ。たべ〜られ〜る〜。
「この中だっ」
 その音楽は金庫から聞こえるのだった。慌ててダイヤルを回し、金庫を開ける主人。警官と警部が周囲に一メートルほどの間隔を置きつつ、輪を作ってガードする。警部は自分の電波時計を確かめた。時刻は既に12時2分。
「ああああああっ」
 主人は悲鳴をあげた。開いた大きな金庫の中にあるのは携帯電話が一つきりだった。
「ピクミンは着信メロディだったのか。しかしこんな、すぐ風化しそうなネタをよく」
「違うっ。私の宝石が。宝石が無くなっているんだ」
「はっ」
 警部がハンカチで覆いつつ、携帯電話をそっとつまみあげる。ためらいつつも、通話ボタンを押して電話に出ると、電話からくぐもった声が聞こえ始めた。
『残念だったね、警部。またしても私の勝ちのようだ』
「ぐ、その声は四次元怪盗」
『ご高説拝聴させてもらったよ。四次元の解説、見事だった』
 警部は、ぱっと手を振って部下に逆探知を指示する。周囲の警官がにわかにあわただしくなる。
「きさま、どうやって宝石を」
『それは秘密とさせていただこう。だが、それでは年末だというのにわざわざおこしいただいた警部にも失礼というものだ。ヒントくらいはあげようじゃないか。すなわち《四つ目の次元は空間とは限らない》』
「なに、それはいったい」
『そういうことだ。ではまた。秘宝《オレゴンから愛》確かにいただいたよ。はーっはっはっはっはっ』
「うわっ」
 驚く警部の手の中で、携帯電話は小さな爆発を起こし、燃えながらこなごなに飛び散った。警部は慌てて火を消しとめようとするが、絨毯をわずかに焦がした携帯電話の破片は、きれいに消滅してしまっている。

「そんな、そんな」
 床にぺたんと尻餅をついたまま、すがるように警部を見る主人。ショックのあまり、立ち上がることもできないようだ。と、何事かを考え込んでいた警部はふいに「そうか」とつぶやくと、金庫を見つめた。
「…そうか。わかったぞ」
「な、なにがですか」
「つまり、時間だ。アインシュタインの相対性理論によれば、時間は三つの空間の次元に次ぐ、四つ目の次元とされる。四次元怪盗は、縦でも横でも高さでもない、金庫が開いている唯一の方向、未来か過去からこの宝石を盗んだのだ」
 警部は、自分の思い付きに興奮し、部屋の中をうろうろと歩き回りはじめた。その姿を放心したありさまでぼんやりと眺める主人。
「しかし、そのうち一方向、未来側には宝石がないことがわかっている。こっちの方向から盗むことはできない。すなわち」
 警部はぐるっと主人に向き直ると、言った。
「過去のいずれかの時点、あなたが金庫を開けた時に、怪盗は宝石を盗み取ったのです。それこそ『四次元』の意味だった」
 警部は、まわりの警官に撤退指示を出し始める。
「ただちに非常線を引け。まだそんなに遠くには行ってないかもしれん」
「け、警部、私の宝石は」
 警部は首を振る。
「残念ですが、宝石を金庫に入れる前に盗まれた、ということになると、我々としてもいかんともしようがありません。申し訳ありません」
「そんな」
「では、私は現場の指揮をしなければなりませんので。あ、あとで鑑識が指紋の採取をしますから、金庫は触らないように」
 そう言い残し、警部と警官たちはたちまち部屋を出て行く。たった一人ぽつんと部屋に残された主人は、からっぽの金庫と壁の時計を呆然と見比べると、首を振った。
「この場合、予告日時には、どういう意味があるんだ…」


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