えもじが

 たとえば、生まれたときからインターネットが存在することを前提とした子供の教育はどういうものであるべきか、考えてみたのだがどうにも判断がむずかしい。ある程度成長し、情報に関する客観的な評価方法を身に付けるまでは、子供とインターネットとの接触をあえて断つべきなのだろうか。それとも世界に広がる計算機網は教育に革命的なプラスの変化をもたらすものであり、積極的に活用して行かねばならないものなのだろうか。どちらにも一理ありそうで、時代の趨勢としては後者に向かっているのだろうと思うのだが、それでいいのやら、にわかには判断しづらい。自分にとって最善はどうだったかと考えようにも、私が子供の頃にはこんなものはなかったわけで、よくわからないのである。なにしろ私が知っているのは、大学時代のある時期から成長するインターネットとともに教育を受けてきた自分のことだけなのだ。この百年ほどは、一事が万事、世代間の格差というものが、新しく発明された品物一つひとつについて生じていると言える。子どもたちがこれからどんな人生を送ってゆくのか、恐ろしくもあり楽しみでもある。

 といって、私は今年三一歳なのであって、こんな感想を抱くのはまだまだ早い。この推論は逆方向にも適用できるのである。ラジオ、電話、水道、石油ストーブ等々、私が生まれたときから当然だと思っている道具について、はたしてこういう道具が存在していなかった頃、人々はいかにして暮らしていたのか。こちらについても想像は簡単ではない。最近とりわけ考えるのは、かつての、携帯電話がない頃の会社での暮らしはどういうものであったろうか、ということである。

 本当に、携帯電話の普及こそはこの十年での日本における最大の変化かもしれない。現在の中高生あたりが自分の携帯電話を持っていて日常的に使っているという状況に想像しがたいものを感じながら、同時に、やっと四年前になって学生の身分を脱した私には、オフィスで日々を送る上で携帯電話がない状態というものをあまりよく想像できないのだ。おそらくは、家庭からの緊急の用事はこともあろうに会社の電話にかかってきて、会社の電話交換所や時には同僚の呼び出しを通じて私に繋がり、私は「なにが『帰りにマヨネーズ買ってきて』だ」と怒りにふるえることになっていたのだろうと思う。しかし現実には私にとっての職場はそうではないのだ。そういう連絡は私のポケットに直接、しかも音声ではなく短文でもって届くようになっている。

 携帯電話と書いたのは、細かいことを言えば正確ではない。ある交友関係に起因する事情があって、私は長い間DDIポケットのPHSを使っている。使いはじめた頃は埼玉に住んでいて、電車や自動車で移動しなかったので、基本料金が安いPHSで十分だったのである。そう言っていたら、なんだか性能や使用可能エリアが向上し、電車や自動車で移動する今になっても特に不自由はない。料金が安い分と音声がクリアな分丸もうけではないかという気がしている。

 しかも、珍しいことではないかと思うが、たまたま、今は妻になっている女性が持っていたのも同じDDIポケットのPHSで、お互いに連絡を頻繁に取るようになると、同じPHS会社であることは何かと便利なことが多かった。たとえば「Pメール」というショートメッセージサービスがあるのだが、これはDDIポケットの端末同士でないと使えないので、私はそれまでほとんどこの恩恵に浴したことがなかった。これが、たまたまだろうがどうだろうが、同一端末が二つ存在するようになってみると、恐ろしく便利なのである。

 それでも、最初はメール一通につき五円ほど取られていたので「ドコソコで待っている」「トンカツソース買ってきて」などといった、それなりに大切な用事にしか使っていなかった。しかるに、これがあるときから月極め定額料金になって、いくら送っても値段は同じ(他の料金コースと組み合わせると文字通りタダ)ということになって完全に歯止めがなくなった。こんな料金制度でどうしてやっていけるのか、細かいことはよくわからないのだが、なにしろ送っても送らなくても同じ値段なのだ。特に用事がなくても「英語でカエルはケロッグ」とか「ハローキティは仕事を選ばないがスヌーピーも最近選んでない」とか「夕刊読みたくなかったら新聞取るのやめとけ」とか「ところでチャーリーブラウンの声コマーシャルによって違わないか」などとどうしようもない事どもを日がな一日送ってもタダなのである。結果として、我々夫婦は、これは別にノロケでもなんでもなく事実だが、自営業並に頻繁に会話をしているペアの一つとなっている。まさに、これがなければどうなっているのか想像もつかない。

 国民を無差別に二人選んだら二人ともPHSということはめったにないことだと思うが、一般的に同じ機種で揃えると利点が多いという事情はあって、大勢としてはみんなドコモ、ということになっているのだと思う。上記の諸事情により、普段PHSで完全に満足している私なのだが、NTTドコモの端末がうらやましいと思うこともたまにはあって、その一つは豊富な「絵文字」が使えるということである(私のにもあるが、ちょっと数が少ない)。

 先日、NHKでこの絵文字のちょっとした特集をやっていて、珍しかったので思わず見てしまった。明言されてはいなかったがNTTドコモの携帯電話における絵文字を使用した、現在流行中のある種の隠語文化の紹介であり、おそらくはこの一瞬だけ流行して、この先どうなってゆくかわからない文化ではあるのだが、紹介しておこう。

 まず「OK」という絵文字一文字。このOKの上下にラインが引いてある文字があるのだが、この意味は「病気、不調」である。理由は、これがベッドに寝ている人間に見えるから。つまり、Oが頭でKが手足、上下の線がベッドということになる。なるほど、そう見える。次に紹介されていたのはアルファベットの「Y」と「渦巻き」を組み合わせたもので(近似すると「Y@」)、これは「かたつむり」を表象し「のろい、遅い」という表現になる。また「ビル」「斜め上矢印」「ゴルフクラブ」「『怒り』を示す漫画符号(青筋)」「『ダッシュ』を表す漫画符号」という絵文字列も紹介されていてこれは「上司に腹が立つ」ということである。後半は漫符を借りてきただけだが「会社、上、ゴルフ」で上司を表すのが面白い。

 そこで気が付いたのだが、ここで紹介されていた三例、すべて実は理解に言語的知識が必要でない。寝ている人やカタツムリの絵からそれぞれ病気、遅さを連想するのは突飛ではないし、上司の表現に「斜め上矢印」が入っているところなど、なかなか高度な抽象化がされているのに、たとえ日本語を全く知らなくても、理解はまったく困難にならないのである。非常に多数の人間が非常に長期間にわたって考えた数々の表現のうち、最良のものがこうして話題に上っているからこそであるとは思うが、実に巧妙であり、いったんこれらの表現に慣れれば、全く言葉の通じない人々にもちゃんと伝わるのではないだろうか。

 耳が不自由な人が使う「手話」というものについて、この絵文字表現に似ているところがある気がしている。手話には、たとえば「犬の耳の形」が「犬」を意味するように、基本的には言語に依存しない表現が多々ある。残念ながら、英語の手話話者と日本語の手話話者との間には直接言葉は通じないらしく、これは急に「ルーシーメイ」などと言いたくなったときのために一文字一文字指で表現する「指文字」を使わねばならないからだが、語彙が増えてゆけば、また「ご一緒にポテトはいかがですか」式の決まり切った会話なら、すぐにでも言語フリーな情報伝達手段になりうる言葉だと思う。

 これに比べると、絵文字を使った文化は、端的に言うとNTTドコモ端末だけの狭い範囲だけの文化ではあるのだが、非常に普遍性を持った、将来の「国際語」になりうる可能性を秘めた文化ではないかと、ちょっとだけ思っている。発明とともに社会は変化してゆき、未来は拓かれてゆく。つまりはまず、我々はこういう世界に生きているということである。DDIポケットには、NTTドコモとコンパチな絵文字の導入をぜひお願いしたい。そもそも、変なのが多すぎるぞ、DDIポケットの絵文字。


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