百円の大地

 埼玉県に住んでいたころ、お葬式があって、急に礼服が必要になったことがある。兵庫県の生家にはいつか買った礼服があるはずなのだが、なにしろ急なことで、送ってもらっていると間に合わない可能性がある。まあ、夏用としてもう一着くらい持っていてもいいか、というタイミングでもあり、新たに買うことにした。しかし、買うことにしてから気がついたのだが、葬式に出るための衣装一式というと、上着とズボン、ネクタイはもとより、カッターシャツに靴下、ベルト、ハンカチから革靴まで必要なのだ。これは散財である。半分泣きながら近くの紳士服店で一式を買いそろえたのだが、もらったスタンプカードがみるみる埋まってゆくのが、嬉しくも悲しかった。

 このとき、まんまと替えズボンまで私に売りつけることに成功した店員が、スタンプカードを渡しながら私に、こんなことを言った。
「このスタンプカードは、全国のチェーン店で共通で使えますから」
 妙なことをわざわざ強調するものだな、と疑問に思わないでもなかった。しかし、この疑問が氷解したのは、それから二週間ほど経って葬式も済んでから、この紳士服店の前を通りがかったときのことだ。紳士服店が「百円ショップ」としてがらっと新装開店していたのである。かつてスーツが並んでいたショーウィンドウには、今ではプラスチックの食器やら洗面器やらが並んでいる。そういえば、あんなに買い物をしたにしては、店員の顔が暗いと思ったのだ。正当に服を買って正当に支払いをしただけで、損をしたわけでは全くないのに、なんだかだまされたような、腑に落ちない気持ちであった。端的には、あの百円ショップの中で、私の礼服が百円で売られているような、そんな空想が頭から離れないのである。

 さて、そんな暗い思い出がある百円ショップだが、私の今のアパートの近所に「ダイソー」という百円ショップチェーンの一店舗がある。ダイソーはどこでもそうなのだと思うが、品揃えが充実していて、特に「ダイソーが百円で売るために自分で開発した商品」というのがあって、これがなかなかバカにできない。バカにできない、といいつつも、まあ百円だからして百円なりのものなのだが、今回おすすめしたいのは「百円の地図」である。私が買ったものは「ザ・マップ分県地図」で、A1の大きさの紙(つまり、A4の倍の倍の倍、八枚分の大きさ)に、県ひとつぶんの地図が印刷してある。それだけのものだが、百円は安い。何枚か買って、一枚、トイレの壁に貼ってあるのだが、茨城県の地理にやけに詳しくなってしまった。

 今朝もその地図を見ながら「利根コカコーラの工場は土浦市にあるのか」とか「『きたうらこはん』駅ってなんかおいしそうな名前だなあ」とか、そういう無駄な知識を蓄えていたのだが、筑波山の高さが八七六メートル、というのを眺めていて、ふと思った。実際、地図上にこの高さを描くと、どのくらいの高さになるのだろう。

 この地図は、用紙の大きさに合わせて一つの県を描く、というのを一つの基準にしているらしく、二十一万分の一という半端な縮尺である(※)。ということは、地図上での一センチが、実際の二・一キロメートルにあたる。まあ、一キロにつき五ミリだと思ってそうおかしくない。なにしろトイレの中なので電卓はないのだが、筑波山の高さは、紙面でだいたい四ミリくらいの高さだということになる。意外に低いようにも思うが、もともと筑波山じたい高い山ではないので(これでも茨城県の最高峰らしいが)、そんなものかもしれない。三七七六メートルの富士山なら二センチ弱ほどの高さがあるのだ。

 ところで、私の目の高さ、トイレに座った状態で地図から三十センチくらい離れたところは、いったいどのくらいの高さになるか。三〇かける二・一で、六三キロメートルということになる。打ち上げたロケットが人工衛星になるには、確か最低でも三百キロくらいの高度が必要なはずだから、それにはまだまだ足りない。この位置だと茨城県全県は視界に収まらないくらいの大きさがあるが、この高度は成層圏くらいということになるのだろうか。理科年表あたりを調べればわかるのだろうが、手元にないのでよくわからない。旅客機の巡航高度は確か一万三千とか一万五千メートルとか、そのあたりなので、紙から七センチくらいのところを飛んでいるわけだが、再現してみると、ちょっと近すぎて目のピントが合わない。残念である。

 では、衛星の高度、三百キロはどのへんかというと、一メートル五〇センチあたりだ。もう完全にトイレの外になるのだが、最低の高さの人工衛星でも、それくらいは離れていることになる。ウソかマコトか、アメリカのスパイ衛星は道を走っている自動車ぐらいの識別能力があるというが、三十センチくらいの距離から見ると道路は(これは地図だから強調して太く描いてあるのだが)、糸のようにしか見えないはずである。おそろしく目がいい衛星なのだと思う。さらに、携帯電話のイリジウム衛星、イリジウムの会社が倒産してこれが今どうなっているのかよく知らないのだが、これは確か高さ八百キロあたりを飛んでいる。距離四メートル。ぎりぎりで私のアパートの敷地内になるが、遠くまで電波をやりとりしていたものである。なくなって、悲しい。

 しかし、もっと本当に遠くにあるのは「ひまわり」やBSの放送衛星(おかしな表現だが)のある、静止高度である。書かずもがなの一口解説を入れると、この高さに打ち上げられた衛星はちょうど一日で地球のまわりを一周するので、自転している地球上から見ると空の一点に静止して見える。だから「静止衛星」というのだが、この衛星の高さは三万六千キロメートル。もちろん静止衛星は茨城県上空にはないが、もしあるとすれば、地図上の距離は、なんと一八〇メートルということになる。遠い。とても遠い。A1の大きさの地図自体、見えるかどうかちょっと不安になるほどの遠さである。こんな高度から雲の写真を撮ったり、降ってくる電波をお盆くらいの大きさのアンテナで受信できたりするのだから、技術って素晴らしい。

 そういう事を考えていたら、ちょっと時間を費やしすぎたようである。さっきから外で、ドアをノックする音がする。家庭争議に発展してはたまらないので、もう去らねばならない。あとは、月や太陽、それから最寄りの恒星がこの地図からどれくらいの距離にあるのか、ぜひ計算してみたいところだが、用もすっかり済んでいることでもあるし、次回のトイレの時の宿題として残しておくことにするのである。はいはい、今出ますよ。

 ところで、私が礼服を買い、百円ショップになった店のことだが、そのあと一年くらいしてあたりを訪れてみると、また紳士服の店に戻ってしまっていた(ただ、店名は違っていた)。百円ショップ界もなかなか大変らしいが、百円でできることには、まだまだ可能性があると思う。がんばってこういうクールな商品を開発していって欲しいものである。いや、わかったって。今出るから。


※ だから、福島県版は二十四万分の一、千葉県は十八万五千分の一、ということになっている。
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