サッカーの夜

 自分の行動を反省し、恥じることは一般に美徳とされている。日本が「恥の文化」を持っていると述べたのは誰だったか、しかしその対極である「恥を知らない」という特質は、時として、一種の力、有力な武器になりうる。たとえば電器屋の店頭で価格交渉をするとき、言わば我々は恥を幾ばくかのお金に替えていると言える。クラスで一番恥を知らない男に、その行動力でもってクラス一の美女が射止められてしまう、なんてことは、悲しいかなしばしばあることだ。
 しかし畢竟、ある行動を恥じるかどうかは、その人の内面的な判断基準に大きく依存した事柄なので「値引きを交渉することの、どこが恥ずかしいんだ」という意見を持っている人は、そうでない人より丸々得をしているといえるかもしれない。控えめに言って、恥には使いどころがあるのである。

 似合わないそんな人生訓はどうでもよいのだが、ルールのもと公正たるべきスポーツの世界においても、恥を知らないことが有利に働く場面がままある。一つにはそれは「審判へのアピール」という状況である。野球を良く知る人はご存知かと思うが、攻撃中、フェアグラウンドの外側、一塁と三塁の近くに一人ずつコーチが立って、ランナーの進退を指示していいことになっている。ランナーに向けて「回れ回れ、次の塁を狙え」とか「ストップストップ、もう外野から球が帰ってくるぞ」というような情報提供を行うわけだ。それは良いのだが、ここで問題としたいのは、バッターが内野ゴロを打ってしまって、一塁で楽々アウト、というような場面である。審判が一塁手の捕球のタイミングとランナーの足の速さを見比べて、判定を下す。と、テレビの画面に二通りの判定が映る。
「アウト」
「セーフ」
 よく見ると、横に大きく手を広げてセーフを主張しているのは、誰あろう、一塁側コーチなのだった。

 もちろんアウトかセーフかを判定するのは審判であって、コーチが何をやっても別に何かが変わるわけではない。ところが、そうであるにもかかわらずこの「偽セーフ」はもう、どのチームでも、どんな場面でもやっているようだ(ただ、プロ野球だけかもしれない)。タイミングが完全にアウトだったとしても、あるいは単なる送りバントであって打者走者の生存をもとより期さないような場合ですら、コーチは心を込めて「セーフ」の身振りをする。これは多分「目の前でそんなことをやられると審判がついつられてセーフってやっちゃう」効果を狙ってのことなのだと思うが、恥ずかしいと思わねばならないところである。
 似たような行為をもう一つ指摘すると、キャッチャーがピッチャーの投球を捕球したあと、ぱっとストライクゾーンにミットを移動させる、というのもあって、これも審判に「いまのボールはここに来たんですよ、ほら、ストライクゾーンど真ん中じゃないっスか」とアピールしているらしい。なんというかどちらも、客観的に見て、かなりいじましくて、恥ずかしい行為ではないかと思う。第一かなりアンフェアに思えるのだが、ルール上禁止されていないということは、その効果はたいしたことがないのだろう。そう考えると余計に、なんともいじましい。

 この点で同じように明らかな場合として、サッカーを挙げなくてはなるまい。これはもう、審判に向けてみんなが演技をするスポーツである、と断じてしまっても言い過ぎではない。ボールを奪いに来た相手がひどい攻撃を行った、という風体を装うのだが、半分くらいは「熊にでも殴られたのか」という派手な転び方である。「痛い、いたいです。見ましたかみなさん、この人ものすごいタックル。あ、骨が骨が、折れたかも知んない。イタイ痛いイタイ。ひどいです。審判。審判。非道。こんな極道を許しておいていいんですかサッカーというのは紳士のスポーツじゃなかったんですか。暴漢と強盗と殺人鬼ばかりがこの世にはびこって正義はどこにもないんですか審判。ああ、闇だ、この世は真っ暗闇やみだ。痛いいたいもげるモゲルしびれる痺れる」という、何もそこまで言うことないが、そういうアピールを行っているわけである。大げさに転ぶのは、そうしたほうが怪我しにくい、という理由もあるのだとは思うが、やはり、一義的には「審判をだましてフリーキックをもらう」という目的があるように見えてしまう。少なくとも「アピールしないのは馬鹿だ」とは思われている気がするのである。

 さて、そんなサッカーである。先日、日曜の晩に、日本チームとロシアチームの試合があった。日本中の七割くらいの人が見ていたあの試合のことであるが、これがもう、放映しているテレビ局が大はしゃぎしているのが、なんとも恥ずかしかった。あちこちの番組で「ロシア戦まであと3日」などと宣伝するだけならまだしも、当日になって「ロシア戦まであと6:37」という表示を放送に入れ始めたのである。なるほどこれも視聴率に効き目があるのかもしれないが、わずかなことなのだろうと思うし、いじましくて恥ずかしい。

 しかしそれでも、我が家もまた、この試合に向けてなんだかんだ言って準備をしていたのである。ご飯を済ませて風呂に入り、幼い娘を寝かしつけた。試合直前、がらんとしたコンビニまで夜食と飲み物を買いに行って、妻に供したりもした。その日やることを全て終えて、ベッドの上で放映を待っていたのである。二人で布団にもたれかかって、キックオフを見る。幸せである。

「今、二木ゴルフ、って言ってなかったっけ。そういう名前のロシアの人がいるのかな」
「そんなこと言ってたっけ」
「言ってたさ」
「ふーん、あ、ほんとだ」
「な、二木ゴルフ二木ゴルフ」
 ニキフォロフたらいうプレイヤーがいるのであった。結局のところ、それほどサッカーには詳しくないので、だいたいそういう見方になってしまうのである。

 とはいえ、どちらが優勢か、今のが危険なのかどうかくらいは、わかる。
「あーっ、今のは危なかったなあ」
 と、私は声を挙げる。
「えっ」
「うん、よく防いだよ」
「見てなかった。リプレイやらないかなあ」
「うーん、やらないみたいだね」
「そか」
 とまあ、そんなことを話しならが、買ってきたダイエットスプライトで、かっぱえびせんの韓国のり風味、などというものを二人でつっつく。娘は寝ながらむにゅむにゅと口を動かして、また寝てしまった。この子は日本でワールドカップがあったことなんて、覚えちゃいまいなあ。時間がゆっくりと過ぎてゆく。

「何やってんだっ。ホームランじゃないか」
「……ん」
「惜しかったんだよ」
「…」
「リプレイやってるよ、ほら」
 見れば、いつのまにかテレビを熱心に見ているのは、私だけになっている。妻は図書館で借りてきた育児雑誌を、一心に読んでいるのだ。私はなにか裏切られたような気がして、言った。
「あのな」
「……」
「あのな」
「…なに」
「一緒に見ようや、サッカー」
「見てるよ」
「見てないじゃないか」
「見てるってば」
 サッカーの晩に、自分の家でテレビをつけるのではなく、わざわざサッカーの試合を放映しているバーや、試合が現実に行われている競技場とは別の、スクリーンに試合の模様が映されているだけの競技場まで出かけてゆく人がいる。これはもしかして、熱に浮かされたような恥ずかしいことなのではないかと思っていたのだが、今分かった。これはつまり、こういうことである。少なくとも競技場には「ひよこクラブ」は置いてない。

「ふうん、今のがファールなのか」
「……」
「ゴンは出てこんのかな。ゴンは」
「……」
「あっ、見てみて、凄い髪型。『北斗の拳』の実写版みたい」
「……」
「なあ」
「……」
「なあってば」
「…ん、なに」
「いや、なんでもないっス」

 ハーフタイムになった。試合はまだ零対零。トイレに立って、帰ってきた私は、妻が、雑誌を置いて、すっかり眠りこけているのを発見した。私は暗澹たる気持ちでテレビを消した。起こしては可哀想だし、一人で見ても、もう一つ、つまらないのである。しかしそれにしても、思えば、結婚なんかをしたのは、こういうときに横に誰かがいて、私の馬鹿な言葉を聞いていて欲しかったからではないだろうか。

 というわけで、どうでしょう審判。これはファールではないでしょうか。アピールしてもどうにもなるものではないとは思うのだが、せっかくなので、恥を忍んで書いてみるのである。誰かこの口のところに青のりを付けたまま寝ている女に、あの黄色いカードを掲げてやってはくださいますまいか。特に実家のお母様。いかがなものでしょう。


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