崩れ落ちるバランス

 翻訳ものの本を読んでいると、ときどき「彼または彼女」とか、あるいは「この文中に登場する『彼』は『彼または彼女』を省略したものである」といった記述に出会う。英語では三人称単数代名詞に性別があるので、たとえば「私からの返事をもらってどう思うかはその人の性格次第である」などと書きたいときに「その人」の性別を省略しにくいのである。考えてみればややこしい、業の深いことであるが、そういうものなのでしかたがない。母国語が日本語で良かったと思う。

 この問題に関連して、リチャード・ドーキンスがある本の冒頭で「私は自分の文章の読者としてはどちらかといえば女性を想定しているようだ」というようなことを書いていた。ドーキンスはここで「彼女は」に統一すると違和感があり女性に気を使いすぎているように見えるし「彼または彼女」ではなにしろ煩雑なので、断腸の思いで「彼」に統一する、と宣言しているわけなのだが、これを読んで、ふと思ったことがある。私は、男性と女性、どちらの読者を想定して書いているのだろう。

 よくよく自分の内面を掘り下げて考えてみたところ、掘り下げた割にはつまらない結論なのだが、私にとっての答えはどうも「書くものによって違う」ということになりそうである。というより、ほとんどの場合、書き始めるときは読者がどういう人とも想定していないのだが、書くうちに「こういう人には喜んでもらえるだろう」「あの人にはちょっとここはわからないだろうな」という部分が増えてゆき、想定読者が決まってくるのだ。「対称性の自発的な破れ」というやつで、ちょっと面白い。

 いま、さっきのところで小さな悲鳴が聞こえたような気がするので、補足しよう。「対称性の自発的な破れ」というのはこういうことである。たとえば削った鉛筆を、とがったほうを下にして平らな机の上に立てる。手を離すと鉛筆はほどなくどちらかに倒れる。これはどんなにうまく立ててもそうなるのだが、その理由はこの系が「誤差を増幅する」という方向にあるからである。少なくとも数学的には、鉛筆の先の真上に重心があれば、鉛筆はどちらにも倒れないで済む。しかし少しでもどちらかに力が加わって重心がずれると(原因は、遠くの惑星の引力でもいいし、鉛筆原子の運動や周囲の空気分子のぶつかり方のちょっとした非対称でもいい)、あとは鉛筆の先と重心をどんどんずらす方向、ずれを増す方向に力が加わってゆき、鉛筆を倒してしまうのだ。これが「自発的対称性の破れ」である。どんなに理想的に初期条件を決めても、自ら持っているちょっとした、たまたまの非対称性があとで大きく増幅されてしまうので「自発的」というふうに言う。詳しくは立ち入らないが、もともとは宇宙論で、ビッグバン周辺で起こったことについてのことばである。

 自発的対称性の破れが見られる場所は、日常でもいろいろある。二つ以上の企業の競争状態というのが実は不安定で、どれか一つの企業が独占する状態になりやすい、などというと、半可通な経済学の話を偉そうにも始めることになってしまうが、たとえば昔あった「プレイステーション」と「セガサターン」の戦いはどうだろう。この二つの家庭用ゲーム機の「実力」は最初のうち、ほぼ互角だった。発売時期も、性能も、本体やソフトの値段も、それから発売されているそれぞれのソフトの数も、ゲーム雑誌の種類やゲーム売り場での占有面積も、特に発売当初はだいたい同じだったと思う。シェアも似たようなものだったのではないだろうか。

 しかし、ほんのちょっとした優勢、それは「ドラゴンクエスト」の新作がプレイステーションで発売されるということだったかも知れないし、あるいは発売されたゲームのちょっとした出来不出来、シェアの数パーセントの差だったかも知れないのだが、何にせよ差が生じると、それは時間と共に、どんどん拡大されるものである。あるゲーム開発会社が、どちらか一方のプラットホームでしか自社のゲームを発売できないとして、常識的にはわずかでも優勢な側のマシンで開発を進めたいと思うものである。そしてそれは必ず、最初はわずかだった差をますます広げてゆく行為になる。そうして、気が付いたら一方は全世界を制圧しかかっていて、もう一方は不遇な後継機を発売した末にゲーム機から撤退を決めているのだ。たぶん、そんなにセガが悪かったわけでもソニーが偉かったわけでもない。自発的に対称性が破れただけなのだ。

 これを敷衍して、タイなんとかジャイなんとかいう野球チームのことについて考えてもいいのだが、逃げるように話を変える。そういえば、私の会社に似た話があった。電車の座席などで顕著だが、普通の席では人情として、先に席に座っている人からできるだけ距離をおいて座るものである。七人掛けくらいの長いすが置かれている、普通の通勤電車なら、まず最初に席の端が埋まる。やがて車内が混んで来ると、次にその反対側の端が埋まり、真中あたりに座る人が出始め、最後には全ての席が人で埋まるわけだ。ここまでは対称性が破れる話ではない。最初の一人がどちらの端に座るかでわずかな非対称が生まれるが、それ以降の状況はまず対称性を維持したまま進行してゆく。全ての座席の人の密度が、だいたい対称になるように埋まっているわけである。

 私の会社の話は、似ているがこれとはちょっと違う。私の通っているオフィスの、実はトイレの話なのだが、男子用のそれには七つの小便器が並んでいる。この埋まり方が、電車の席とはまったく違うのである。全国的にどこでもそうだと限らないが、私の局所的な観察の結果を書くと、小便器の埋まり方のルールはこうなっているようだ。
(1)比較的入り口に近いほうが好まれる。
(2)誰かがいま用を足している隣は、万事やむをえない場合をのぞいて使いたくない。
 人によって細かな好みの差はあると思うのだが、観察によれば、ほとんど例外なくみんなそう思っているようである。入り口に近いほうから数字を振ることにすると、たとえば「二号器」が使われていたら「一号器」と「三号器」は使われない。次の人は「四号器」から向こうにあるどれかを使うことになるが、「七号器」までわざわざ歩く人はあまりいない。なにしろ急いでいるのである。

 そう、これが自発的対称性の破れのおもしろい実例になるのだ。トイレに行くたびにそれとなく観察すると確かにそうなっているのだが、三、四人が同時に使用しているとき、埋まり方は一号、三号、五号、七号の4つか、二号、四号、六号の3つの、どちらかになることが多い。わっと使用者がおしかけたときに、最初の一人が一号器を選ぶか二号器を選ぶかで、それ以降の使用者の選択がこの二つのどちらかのパターンに決まるのである。たまに、四号、六号が使用中のときに次に来た人が一号器を選ぶなど、一方の安定状態(二四六パターン)からもう一方の安定状態(一三五七パターン)に移行することもあるが、できたパターンはある程度の安定性を持っている。各人はそれぞれの自由意志をもって利用しているはずなのに、こういう数学的なパターンが見られるのがなんだか面白い。結局人間の自由意志はどこにあるのか、という話なのではないだろうか。

 と、この文章をここまで書いて読み返してみると、今回の話もまた対称性が自発的に破れてしまい、男性向きのものになってしまったのであった。似たような例が女性用トイレにもあるのかも知れないが、知らないものは書きようがない。お許しを請い、次回こそは女性むけに書くことを誓うものである。もっとも、自発的対称性の破れのすることですから、ちょっとわかりませんけどね。


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