電池を回せ

 鳥小屋の中に鳩を入れて、小屋にある装置を置いておく。その装置にはボタンが付いているのだが、ボタンを鳩が突っつけば、餌が一つ、コロンと出てくるようにできているのだ。こういうふうにしておくと、鳩はあっという間にボタンと餌の関係を見抜いて、ボタンを突っつくようになる、らしい。

 この実験には、ボタンの回数と餌の数を工夫したり、ボタンを押しても押さなくても餌を無関係に出すなど、さまざまに発展形があって、面白いのだが、そのへんのことは参考文献(※1)を読んでいただくとして、確かに「コレコレをすると、餌が得られた」「ソレソレをすると、痛い目にあった」という学習は、生物が野生で生きてゆくためにどうしても必要な機能の一つであるに違いない。面白いのは、この手の学習には「推論」は関係ないということである。ボタンを押すと餌が出るようなモノは自然界にないのに、そういう細かいことは気にしないようにできているわけだ。このへんは、教条的な本能や物事の意味にこだわって餌を逃したりしないような、いわばちょっといい加減で功利主義な個体が生き残って、生物界を支配してきたということになるのだろう。

 さて、ここで問題である。テレビやビデオのリモコンが、あるとき急に効かなくなった。どうも電池が切れたらしいのだが、こういうときあなただったらどうするか。いやなにもちろん、なんのことはない電池を新しいのに交換すればいいのだが、だいたいにおいてリモコンが使いたいのはここから動きたくないからであって、残念なことに新しい電池がすぐ手の届くところに置いてあるような家はあまりない。何としてもこの炬燵から出たくないのである。ではどうするか。

 そもそもテレビのリモコンというやつは、どういうわけかいつも電池が切れているような気がするのだが、以前、テレビであるタレント(※2)が、この問題についてこういうことを言っていた。こういう事態に陥ったら、焦らず騒がず、まずリモコンを裏返し、電池ボックスの裏ぶたを外すのだ。そして、くるくる、くるくる、と電池を回すのである。そうすると、どういうわけか、あと数回くらいは大丈夫テレビ等を操作できるようになるのだ。

 これは面白い。実に面白い「学習」の実例である。あなたもぜひやってみて欲しい、電池をくるくる回すと、確かに、頑として変わらなかったチャンネルが変わるようになる。そのタレントがどういうわけでこの方法を発見したのか、そのへんが是非知りたいのだが、というのも、ここで「回転させる」というのはたぶん本質ではないのである。電池を回そうとして指で触ると、結果として少し電池が暖まるわけだが、実は電池は暖めると少し電圧が回復するのだ。つまり、電池はただ触ればいい。回してもいいが回さなくてもいいのだ。

 そもそも「電池を回すのである」という豆知識が出てくるためには、その人に「電池は暖めればよいのである」という知識があってはいけない。暖めるために回すというのはやっぱり少々迂遠なことなので、「暖める」→「回す」という知恵が出てくるはずないからである。想像で書くことになるが、たぶん最初に、電池の極の接触を良くするためとか、なにか他の理由があって回転させてみた人がいて、そうするとリモコンの操作ができるようになったという経験が積み重なって、その辺りからこの、正しくないが役に立つ、「電池を回す」という知恵ができたものだろう。電池の電圧をテスターで見ているのではなく、リモコンが操作できるかどうかで判断しているのも、この誤認において一役買っているのだと思う。起電力をメーターで見ているのなら、おそらく電池を触った瞬間に電圧が上昇するところが観察できるはずだが、ある閾値を越えるかどうかが唯一の判断基準だと、それにはなかなか気が付きにくい。

 今もそうなのかどうか、私が小学生のときは「牛乳は噛んで飲め」ということがよく言われていた。牛乳を口に含んで、一定回数、噛むまね事(なにしろ液体なので)をしてから、飲み下すのだ。今になって考えると、おそらくこれは、冷たい牛乳を胃に入れる前に、口の中である程度暖めてからにしなさい、ということだったのだと思う(※3)。内臓を冷やすと確かに下痢などの原因になるのだから、これは「正しくないかもしれないが役に立つ」知恵である。

 私は長い間、これを子供だましであると、つまり「口の中で少しずつ暖めてから飲め、と言ったのでは子供にはわからないだろうから方便として『噛め』と言っているのである」ということだと思っていたのだが、ひょっとしたらこれも、同じような誤認から来た経験的知恵であったりするかもしれない。あるとき「オイラは今日から牛乳も噛んで飲むのだ」という(奇行をした)人がいて、それからぴたりと下痢をしなくなったとしたら、「噛むといいらしいぞ」という知恵が広まったり、ええと、しないとも限らないではないか。

 あれもこれも、知恵というのは役に立てばいいのだ、というところから離れて、背後に隠れた物事の本質を見極めるという、科学の本質からかけ離れた推論だが、今になって電池を回す人なり、牛乳を噛む人なりを笑っていいものかどうか、私にはよくわからない。なにしろどちらも確かに役に立つ。そして、考えてみると、どうして暖めると電池が回復するのか、あるいはどうして内臓を冷やすとよくないのか、私は知らないのである。細かいことを考えず、ボタンをばしばしつつく鳩と私の間には、意外にたいした距離はないような気がする。


※1「虹の解体」リチャード・ドーキンス。早川書房。いい本なのだがいかんせん二千二百円は高い、かも。
※2 確かスマップの中居正広。
※3 今思い付いたが、もしかして唾液と混ぜるという効果もあるかもしれない。とはいえ、この場合も「噛む」必然性はあまりないと思う。
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