ふたりのニール指数

 ニール・スティーブンスンの「クリプトノミコン」という物語は、重層的な構造を持つ長篇であり、実は一読してどうも納得の行かないところがあったりする本なのだが、しかし、非常に興味深いアイデアが多数収められた、面白い作品である。文庫本で四分冊になっているから「愛に時間を」よりも長いが、「指輪物語」に比べればだいぶ短い。

 この中に、それほど重要ではない挿話の一つとして、親の遺産を受け継いだ子供達の話がある。親が残した骨董やさまざまな価値ある調度品を多人数で分割するのだが、これらの品々の価値をどう見るかは、おおまかな傾向はあれ、一般にそれぞれの子によってさまざまばらばらである。一概に「なんでも鑑定団」的な金銭的価値だけで量れるものではなく、個人的でセンチメンタルな価値もあるわけで、その両者を満足させつつ受け継ぐ権利を持つみんなが納得するように分けるのは容易ではない。

 この難しい問題について、作者はある方法を提案し、作中に登場させている。まず、相続人それぞれが、分けるべき品物について点数をつける。売ってどのくらいになりそうかという金銭的価値、自分がどれだけ愛着を持っているかという精神的価値の二軸を使って、価値平面上でどの位置にそれぞれの品物が来るのかを評価するのである。相続人全員についてこの手続きが完了すれば、あとは全員を満足させる最適解を計算機に見つけ出させればいい。

「計算機に見つけ出させれば」とはいうものの、この問題自体複雑な数学(計算機科学)があり、作中ではここのところ、すこしぼかして書いてある気もするのだが、注目すべきはこの評価方法の公平さである。作中で登場人物の一人が同じ質問をするが、すべての品物について「最高」の評価をしたらどうなるのかというと、特に他の相続人に対して有利にはならない。各自の点数を比べる前に、点数を平均し、分散を同じにするという標準化(Normalize)の手続きが取られるので、全部が最高という評価は全部をゼロと評価したのと同じになってしまうのである。

 ここのところ、もう少し詳しく説明してみよう。相続すべき品物が三つ、相続人が二人いたとする。品物「伊」「呂」「波」について、相続人Aと相続人Bが次のような評価を下す。

2点8点5点
8点9点8点

Aが5のまわりで傾斜評価をしたのに対して、Bは3つともに9点(最高点としよう)に近い数字をつけた。「つけた得点が多いほうがその品物をもらってゆく」というルールなら全部Bのものになってしまうのだろうが、そうはいかない。各々のつけた得点の平均をとり、また分散を同じにすると、評価はこのように書き換えられる。

3.78点6.22点5.00点
4.29点6.41点4.29点

 この得点を使って、どの分け方がよいかを評価する。足し引きの計算をいろんな組についてやってみると、得られる得点の差がもっとも小さく、かつ両者の得点が大きくなる分け方として、Aが伊と波を取ってBが呂を取るやりかたがよい、ということがわかる。この場合Aのほうがやや(2.36点)得になって、これは何か他の方法で調整するしかないのだが、品物が多く、また相続人の数が多くなると、計算はどんどん大変になるものの、得点差が比較的少なく、公平な分け方に近くなってゆくことが期待される。キモは、声の大きさや心理的な戦略にかかわりなく、そこそこ公平に見える分配が半自動的に行われる、ということである。

 さて、以上のようなことを考えていて、ふと思ったのだが、これを人間関係の改善に使えないだろうか。夫婦でも親子関係でも、ルームメイトでも内縁関係でもなんでもいいが、共同生活というものは基本的にお互い少しずつ我慢して作ってゆく関係である。お互いが欲するままに生活をして、それで互いに迷惑がかからないならばそれがもっともよい状態で、我々はせめてそれに近いパートナーを探すわけだが、一般には細かい点で我慢し我慢される点が出てくるものである。

 たとえば、パートナーの片方、甲がある醗酵食品を好むとする。甲はその味が大好きで、食べられないとすると甲は非常なストレスを受ける。ところが、もう片方のパートナー、乙にとってはまったくそうではない。それどころか、乙はその匂いをかぐだけで食欲をすっかりなくしてしまうほど嫌いぬいており、目の前で食べられることからして我慢できない。特定の食物を想定していると思われたくないが、こういう好みの衝突があった場合、ふたりはどうするべきか。どうあっても片方は何らかの形で我慢しなければならないのである。

 そして、そういう場合にこそ「ニール指数」なのである。両者の意見の食い違いを確認したら、甲はその食品を食べたい、と思う気持ちを数字に表してみる。乙は乙で、嫌いぬいたその気持ちそのままに、やはりある数字を示す。これ一つならそれだけのことだが、もちろんパートナー同士の意見の食い違いは納豆にとどまらず他のいろいろな好みに現われてくることだろう。家事の分担、家計の使い道、何時に寝て何時に起きるか、今度の日曜どこに行くか、犬は大型が好きか小型が好きか、歯ブラシを口に入れる前に洗うかなどなど、すべてにおいてポイントを付ける。各案件について、自分がどこまで自分を貫くのか、という数を書いてゆくのだ。どうしても我慢できないと思ったら「百万」と書いたっていいが、どれがどれよりどのくらい優先したいか、ということは、自分の内面を見つめながらしっかり書かねばならない。

 そうすると、どうだろう、上と同じ手順でもって、甲が我慢すべきところ、乙が我慢すべきところがはっきりと示されるのではないだろうか。声の大きさで比べるとどうしても「9」ばかりつける側の要求が通ってしまう傾向にあるが、こうして標準化された数字で比較すれば、そんなことはない。対等な二人の間で対等に要求を通すという前提のもと、これだけの我慢を相手に強いているのだから、引くべきところは引く、という選択が、両者ともにできるはずである。利害が真っ向からぶつかることは、そこはパートナー、あんまりないので、相手にさほど我慢を強いないが自分は非常なこだわりがある、とか、その逆の事柄を多数見つけて譲り合えるならば、両者にとって幸いなことである(両者の合計ポイントが向上する)。

 ひとは譲り合い我慢しあって生きている。二つの競合する人間たち、グループ、会社、国家の仲裁に、ニール指数をぜひ導入して欲しいと思うのである。え、ウチ、いやウチはほら、そんなこと怖くて言い出せませんけどね。


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