信夫の街

「『パナウェーブ研究所』と名乗る白装束の集団」という表現はずいぶん失礼な言いようで、それなら自分のことを「『毎日新聞社』と名乗るスーツ姿の集団」と呼ばれても平気なのか、という話を、わけがわからなくなる前に書いておこうと思って書いておくのだが、今回の話はあまりこれとは関係ない。こちらは「大西科学」を名乗るサイトであります。こんばんは。

 酸素をO、水素をHなどと表す元素記号は、一般には、チタンがTi、マグネシウムがMg、亜鉛がZnという具合に、大文字+小文字のアルファベット二文字で表される。元素の数はアルファベットの数よりずっと多いので、一文字では区別できなくなり、二文字になってしまうのはしかたない。ただ、一文字のものと二文字のものが両方あるのはちょっと非統一的である。OとOs、HとHeのように、同じ頭文字のうち最初に見つけられたものは簡単に一文字で名づけ、頭文字が同じ他の元素が既に存在する場合はしかたなく二文字にする、というルールがあるのかと思うとそうでもないらしく、上の例でいえば元素記号TやM、Zの元素は存在しない(※)。

 その名前を見かけたときに、感じた違和感の正体を、しばらく考えてみて出した結論が「元素記号に似ている」ということだった。ところは福島県。ドライブする車の車窓から、赤錆びてくすんだ工場の壁に黒々とペンキで書かれた「信夫鉄工所」なる名前だった。

 信夫。さあこれはどういうことだろう。もちろん、商店や会社の名前に個人名がつくこと、それ自体は一般的な習慣である。赤木酒店とか理容北野、浜田建具店という具合で、何も問題はない。しかし信夫鉄工所のように、姓名の名のほうを名乗っている店は珍しいのではないだろうか。いや、元阪神の真弓明信氏のように、信夫という名前を姓に持つ人がいて悪いわけではない。しかし、街でいきなり出会うにはいかにも妙な苗字であることは確かだ。たとえば正雄という名前だったら「信夫正雄」である。一人で漫才師のようだ。

 思い起こしてみると、私の故郷には「藤原」という姓が多かった。クラスの藤原君全員が、源平藤橘の藤原、藤原道長の藤原に繋がる血筋の持ち主では、まさかないと思うのだが、明治になって名乗り始めたにせよ、有名な姓だからみんなが名乗ったのだろうな、と私は思っていたから、他の地方にはそんなに藤原は多くないのだ、ということを知って少し面白かった。

 この藤原のような、その地方で非常に多い姓の人が個人商店をやっている場合、名前まで書かないとどこの誰の店だかさっぱりわからない、という事態が現実にあり得る。ふるさとに「藤原道夫牛乳販売店」があったかどうかは残念ながら覚えていないが、私が数年前に引っ越してきたここ茨城にも同じような頻出姓があり、たとえば「小圷」は、知らないと読むこともできないが、出会ってみるとやけに多い姓で、そこらで幾度か見かける。ちゃんと「小圷勝工務店」のような名前の店もあって、なるほど、名前まで書かないと区別できなくなる恐れがある、のかもしれない。

 これが行き着くところまで行ったとする。町じゅうほとんど全部のひとが、たとえば「神崎」という姓で、あの雑貨屋もこの駄菓子屋も角のパン屋まで神崎さんであるとして、この場合、屋号はどうなるだろう。「神崎パン店」と、つけたっていいが、やはり他と区別するためには「神崎義文パン店」とつけるべきではないか。さらに「神崎義文パン店」と「神崎一郎雑貨店」と「神崎きん菓子店」が並んでいると、やがて「義文パン店」「一郎雑貨店」「きん菓子店」になってしまう、などという過程が想定できなくはない、のではないか。

「あっ」
と、そこまで議論を組み立てた私は、運転席で軽く声をあげた。そこに、ブリジストン特約店である「信夫自転車店」が建っていたからである。いやこれはどうしたことか。神崎信夫が二人いるのか神崎信夫と尾口信夫がそろって信夫店を作ったのか、それともやっぱり信夫は姓なのか、と思う間もなく、看板が立っていた。
「←2km 信夫プラザ駐車場」
これは驚いた信夫氏はずいぶんな立役者である。雰囲気からして、信夫プラザはショッピングセンターやスーパーマーケットではなく、公共の集会所かなにからしいのだ。これはつまり、田中角栄氏や田中真紀子氏が角栄氏であり真紀子さんであるように、昔ここに某信夫という偉い政治家がいて、あるいは、しかし。

「信夫さんって、何をした人なの」
「えっ」
 傍らの、福島県出身である、妻がこたえた。
「えー、知らない。誰、信夫さんって」
 私は看板を、あれのことだよ、と指さす。
「ほら、信夫プラザって」
「ノブオって何よ、シノブのこと」
「は」
「あれを『ノブオ』なんて読む人、はじめてみたよ。どう見たって『シノブ』でしょう」
 赤信号で停まった車の中、私は困ったように看板を見つめていた。そこには、どう見たって「信夫プラザ」としか書いてない看板が立っているだけだった。これまで三十余年、つつがなく暮らしてきた私のどこがそんなに悪いのだろうか。それともこの信夫の街が、福島の大地が、妻をしてこの勝ち誇った顔をどこまでも明らかに輝かせるのだろうか。

 私はあまりにもショックだったので、ついに信夫(シノブ)が本当は何だったのか、聞き忘れた。地名だと思うが、意外に人の名前かもしれない。


※ただし、厳密には化学の領域からややはずれるものの、「T」は一文字でトリチウム(水素の同位体で、中性子2個を持つ放射性元素)を表すために用いることがある。MやZもこれほど一般的ではないものの、他に用途がある気がする。
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