相対論の村

「一石海岸」駅のプラットホームを革靴の足で踏みしめると、ぎゅ、とも、じゃり、ともつかない奇妙な音がする。長い年月にセメントの部分が磨耗して、コンクリートに含まれていた砂利が表面に露出していて、しかもその磨耗過程がいまだにすっかり終了はしていないことを示すように、うっすらと細かな砂が降り積もっているからだ。この海辺の村は他のどこにいってもそんな感じで、海から吹く風、運ばれてくる砂のことを忘れては暮らせない。

 しかし、なによりもまず私の心を激しく打ったのは、この磨耗したコンクリートの感触でも、防砂林の向こうに遠く見える海岸線の形でもなく、つんと鼻を突く潮の香りだった。匂いがすべてのインデックスになったように、現れてきた記憶のあまりの明るさ、大きさ、重さに、私は意味もなく肩から下げた荷物をぐっと握りしめて、ふうと息を吐く。久しぶりの、故郷。

 背後でもう一つ、息を吐くような音がして、私をここまで乗せてきた量鉄の扉が閉まった。ずんぐりしたデザインのローカル線は、錆びかかった等ポテンシャル線上をいかにも大儀そうにのたのたと進んでゆく。警笛の音を残し、電車がトンネルの向こうに消えるまで未練がましく見送った私は、ようやく改札のほうに向き直った。無人の改札の向こうに、洋服姿の女性が一人立っている。
「弘文ちゃん、おかえり」
とその女性が私に言った。私は無意識に頭を掻いて、無言のまま改札へと歩いてゆく。駅舎の投げかける影の下から、どきっとするような赤い口紅が私に笑いかける。京子、私の姉、二三歳。計算を間違っていなければ、だが。

「すぐわかったかい」
と、ようやく私は姉に言った。なにしろ、ひさしぶりの帰郷で、私も歳をとった。信じられるだろうか。この前に帰ってきたときには、あんなに小さかった涼平も、敦子も、今では私の帰郷につきあわないくらいに、自分の意志を、世界を持つようになった。そして、あの優しかった妻でさえ。
「ええ、弘文ちゃんは弘文ちゃんだもの」
 姉はおかしそうに、ころころ笑った。
「そうか」
 元気だったか、変わりもなく、いやこちらも、という一通りの挨拶のあと、姉は畳んでいた日傘を広げる。そのまま私に背を向けた姉は、かんたんな作りの駅舎から外へと歩みだした。白い。あまりにも鮮やかで力強く、この世界の全てを塩と砂に分解してゆく、海辺の太陽。私も姉の後に付き従って、そんな日差しの中へとよろめくように歩き出す。耐えがたい暑さを感じて、私は胸元を、少し緩めた。

「暑いね」
「帰ったら、麦茶があるわよ」
 この辺にコンビニは、いや自動販売機かなにか、と考えはじめて、私はすぐに打ち消す。この村にはそんなものは無かった。この村を出てからの時間、主観的にはあっという間だった年月に、それでも、街の暮らしはすっかり体に染みついてしまったようだ。こんな村で自分がどうやって暮らしていたのか、そのことを忘れるくらいに。私は、歩きながらついにネクタイを外してしまい、乱暴にポケットに押し込んだ。妻が見ていたら何と言うだろう、とふと思う。
「あれ見える、弘文ちゃん」
「え、あ、ああ」
「小学校が、建て替えなのよ。私たちの学校」
 姉が細い指で差した先の、ちょっとした高台に、足場が組まれている。そういえば、遠く槌音も聞こえるようだ。
「本当だ。いつから工事しているの」
「一ヶ月…ううん、二ヶ月前かしらね」
「へえ、ああ、そう。建て替えちまうんだ。まあ、古かったもんな」
 と言いながら、私はすばやく計算する。そうか、一年と三ヶ月。姉はそれ以上何も言わずに、道を急ぐ。いつまでも変わらないと思っていた故郷も、少しずつ変わっているんだと、そんなやくたいもないことを考える。
「いや、ほんとに暑いね」
「夏ですからね」
 私の泣き言を、振り返りもせずにそう断ち切った姉の性格は、昔と少しも変わっていない。

「弘ふみー」
と、声をかけられて、振り仰ぐと、そこに母が立っていた。肌に粘り着くような湿度を含んだ潮風の中、意志の力でもってなんとか家路を辿った私に、そう声をかけた母は、生家に至る最後の登り坂の上、小さな畑の間に立って、私を見下ろしていた。小柄な体に、手ぬぐいで頬っかむりをして、曲げていた腰をうんと伸ばしている。泥に汚れた手をぱんぱんと払って、もう一回私の名前を呼んだ。
「かあさーん、帰ったよーう」
 私は、暑さに打ちひしがれた中年男に出せる限界の声でもって、そう答える。
「今度はー、ゆっくりしてくのかーい」
「ああー、一晩泊まってく」
「そうかーい」
「とにかく、お茶をおくれ、かあさん」
 私たちと、母の距離が近づくに連れて、会話はだんだん普通の声になってゆき、母は最後に私たちのほうへ、畑から道へと身軽に飛び降りると、姉に、いっといで、と言った。姉はうなずくと、私と母を置いて、家のほうに歩いてゆく。たぶん、麦茶を用意してくれるのだろう。
「涼平や、敦子は」
「そんなに学校は休めないよ」
「なんだい、つれないね。美智子さんは」
「あいつは」
 母は遮るように首を振った。私には分かっていた、そういう人だと思っていた、という顔で、私はそれ以上なにも言えなくなってしまう。今や妻も母も似たような年齢のはずだが、嫁姑関係とはそういうものらしい。私は先を続けるのを、自粛することにした。
「泊まっていってもいいのかい。一週間だろ」
「んん、二週間だ」
と私は母の間違いを正して、
「いいんだ。『あっち』は正月休みだからね。それに有休くっつけて、二週間休みをとったから」
 母は、ただ黙っていて、その場に立ち止まって、じっと私の方を見ている。私の、二十数年もの主観時間のうちに、たった三年とすこしだけ歳をとった母は、記憶の中とまったく変わらない若い姿で、しかし、田舎らしい出で立ちのせいか、まったく「年下」には見えない。私は気を飲まれそうになって、慌ててもごもごと続ける。
「うん、ちょっとあってね。まあ、今夜話すから」
「ゆっくりして行きなさい。お婆ちゃんも、お爺ちゃんも、弘文と会うのを楽しみにしてるわよ。父さんもね」
 私は、ただもう「お父さんに叱ってもらいますからね」と言われた昔のことを思い出して、悄然としかかって、それから、突然何とも言えない、不思議な気持ちになった。帰ってくる場所。親と子というのは、いつになってもそういうものかもしれない。

「母さーん、なにしてるの」
 玄関のところに立った姉が、いつまで経っても上がってこない私と母を、そう呼んだ。そうかもしれない。高校卒業とともに村を遠く飛び出し、相対論によって時間の流れさえ隔てられていても、結局のところ、私にとって母は母であり、姉は姉であり、父は父なのだ。
「今行くよ、姉さん」
 若かったあの頃のように、そう大声で答えた私は、生家へと続く最後の坂道を、駆けて登ってゆく。村への一晩の滞在が二週間の時間経過を意味する、都会。私の戦場であり、しかしながら結局は戻るべきその場所に戻るために、失っていた元気を取り戻す確かな手ごたえを、その時の私は感じ取っていたのだろう。あるいは足もとの、じゃりじゃりとする感触に。

 私の後から母がゆっくりと歩いてくる。季節は、いまひとたびの夏。どこかで蝉が鳴いている。


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