定性のビット数

 こういうことをお話しすると、大西も歳を取ったなということになるのですけれども、若い方の言葉遣いでどうも気になることがあります。学会やなにかの発表のときの、発表のしかたですね。たとえば、なんでもいいのですけれども、この装置をここにすえつける、と言いたいときに、こういうふうに話すわけです。

「プラスチックシンチレーションカウンターをここに設置してあげると、収集効率がよくなります」

 ああ、お笑いになった方もいらっしゃいます。わたくしも、今言ってちょっと大げさに言い過ぎたかなと思っておりますけれども、まあ、例と思ってやってください。普通の言葉遣いとしてはこれは「ここに設置して『やる』」というふうになるのですが、それではちょっと乱暴だ、と思うのでしょう。「あげる」という言葉を使う方をよく見かけるのです。どうなんでしょう。わたくしはカウンターなんぞは設置して「やって」、それでちょうどいいんだ、と思いますが、「あげる」を使う方は、もう、カウンターだろうが高周波磁場だろうが右辺第二項だろうが、なんでもあげちゃう。

 ええ、まあ、だからといってわたくしが「あげる」撲滅運動に乗り出すかというと、そんなことはしないんですが、思いますに、こういうのは、一人が使い始めるとつい使ってしまうもののようです。半分方、専門用語のような扱いなのかもしれません。自分の部屋の本棚を掃除してあげたり、ブックオフで古本を売ってあげたり、うちに帰って親兄弟と話すときにはそんな言葉を使ったりしないんですが、ところが、この世界では違うんだこうなんだと。何ごとにも「あげる」を使うんだぞと。

 わたくしが見聞きした範囲に、そういうものは他にもたくさんありまして、「ささいなことだ」というかわりに「トリビアルだ」と言ったり、「無視できる」というかわりに「ネグリジブルだ」といったり、いやこれは単なる英語なのでトリビアルでネグリジブルな例かもしれませんが、まあ、こういった、大学の研究室で教わった言葉遣いというのは、けっこうあるものです。日本語の言葉に限っては、「定性的」と「定量的」が良い例になっているかもしれません。しようもない話ですが、使えると格好いいですね。グループ内の発表なんかで、こういうふうに言います。

「ノイズはオシロスコープで観察した限りではシグナルに比べて小さかったです」

 言ってから、気が付きます。小さかったってなんだよ、どれだけ小さかったんだよ。これじゃ小学生の観察じゃないか。で、付け加えるのです。

「定性的ですが」

ほら、格好いい。このときにちょっと苦い顔をするともっといいですね。いかにも、こんな意見を表明するのは不本意だという感じで。

 ちょっと急ぎすぎました。これをお聞きの方で、知らない方というのもあまりいないかな、と思うんですが、わからないとちょっとあれですから、「定性的」と「定量的」について、いちおう説明を挟んでおきます。この二つはちょっと面白い言葉で、世の中にある知識や、主張や、言明や、スローガンや、そういったものは、じつはすべてこの二種類に分けることができるのです。つまり、定性的な知識と、定量的な知識の二つです。

 まず「定性的」とは、性質が定まっている、と書きますが、そのものの性質について述べたものです。一方「定量的」は量が定まっているという漢字で、量について述べたものですね。一種の専門用語、ジャーゴンだと思いますが、普通の辞書にも載っていますから、それほどでもないのかもしれません。

 それぞれが具体的にじゃあどういうものか、と説明するより、さっきのように実例を見ていただいたほうが早いと思います。定性的な主張には、こういうものがあるでしょう。
「今朝私は遅刻した」
「中学生のとき私はモテた」
「ほうれん草は体にいい」
 こういうのは、すべて「定性的な主張」ということになります。これに対して、定量的な主張はこういうものです。
「今朝私は十五分遅刻した」
「中学生のとき私は三人の女子に告白された」
「一日に十ミリグラムの粉末ほうれん草をマウスに与えると、対照群に比べ五パーセント長生きする」
 どうでしょう、定量的なほうが、ずっと正確な感じがします。いや、本当はどちらも嘘っぱち、ハッタリナンバーである可能性はあるわけですが、とにかく量を述べているので、定量的な知識のほうが知識としての量が多い。情報がたくさん含まれている、というわけです。

 大学生のわたくしは、先生がたにしょっちゅう叱られておりました。君の主張は定性的である。もう少し定量的に述べなさい、と。おっしゃる通りなんですね。こっちのほうが大きいとか、こっちのほうがお金持ちである、というのは、大きいか小さいか、貯金が多いか少ないかの二つに一つでしかありません。こっちのほうが五センチ大きいとか、かれのほうが三千万円も貯金が多いとか、そういうふうに言うべきだというわけです。

 そういえば、小説の、シャーロック・ホームズがうまいことを言っていました。助手のワトソンに、かれらが住んでいるアパートの前の階段の段数を尋ねます。そんなの知らないよ、とワトソンが答えるのですが、ホームズは、ぼくは知っている、ただ見ているのではなくて、観察しているからだ、とこたえます。わたくしにはこれは、定性的ではなく定量的な知識が重要であるということをのべているように思えます。

 定量的なほうが偉いのだ、と分かっていても、もちろん、これはたいへんなことです。さっきのマウスの例もそうですが、「これこれの病気が危険だ」「なになには体にいい」と言い切ってしまうほうが、どんなに楽かわかりません。なにやら、より説得力があるようにさえ思います。しかし、それだけに、科学の世界では、定量的な主張は定性的な主張よりもずっと重んじられるわけです。だいいち、知識を定量的にしておかないと、ほうれん草とニンジンどっちをどれだけ食べるべきか、ある病気と違う病気の流行地域のどっちかを選んで赴任しないといけない場合どちらにするか、そういう判断の役にはまったくたたない。数字をくっつけておくことは、めんどうですが、大切なことです。

 さて、釈迦に説法はここでやめまして、わたくしの言いたいことはここからです。定性的な知識は、そういうわけで、定量的な知識よりもクライが下と思われています。が、必ずしもそうではない。特にむつかしい定性的知識がある、と思うのです。

 それは、どっちがどっちだったか、すぐわからなくなるたぐいのことです。たとえば、わたくしは「円安」と「円高」がどっちがどっちか、すぐ忘れてしまいます。ある日、百二十円持ってゆくと、一ドルと交換してもらえました。次の日は円安になりました。一ドルと交換してもらうためには、百二十円よりもたくさん必要でしょうか。少しでいいのでしょうか。これがわからない。考えれば考えるほど、とっちらかってしまうのです。基本的に双方向なのがいけませんね。ドルを円に交換するときか、円をドルに交換するときか。円高はドル安でドル高は円安で、こっちも双方向です。ほんとうにややこしい。円の価値が下がるんだから「円安」と覚えて、なんとか糊口をしのいでおります。

 しのいではおりませんが、ええ、もう一つ、あまり一般的な話にならなくて恐縮なのですが「電磁石の極性」がそうでありました。どっちがNでどっちがSか、二つに一つです。まったくの、定性的な知識であるはずです。ところが、目の前にどんと置いてある巨大な電磁石の、どっちがN極だったやら、うっかりするとすぐ忘れてしまうのです。

 電磁石のどっちがNかを正しく知るためには、まず電源のどっちから電流が出てくるかを知らねばなりません。「プラスは赤い端子だったか黒い端子だったか」のようなつまらないことなのですが、赤同士を繋げばよいのか赤と黒を繋げばよいのか、迷ってしまうのは当たり前だという気もします。電流の向きを間違えず、コネクタの向きを間違えず、コイルの巻いてある方向を間違えず、そのコイルが磁路の中に作る磁力線の方向を、右手をこう猫手に構えて確認しつつ、磁力線の出てくる方がNだったかそれとも逆だったか、悩まねばなりません。こういうのを全部間違えずにクリアして、やっと電磁石の磁極のこっちがNですと言うことができる。一個でも間違うと反対になります。二個間違うともとに戻りますが。

 わたくし、気がついたのですが、これは「定性的」でも非常に複雑な部類なのですね。今挙げましたいろいろなチェックポイントそれぞれは、AかBか二つに一つです。しかしそれがたくさんあると、決して二つに一つではない。情報のビット数がどんと増えるので「流れている電流は1アンペア」などという情報よりも、よっぽど含まれる情報は多くなっているのです。定性的知識と定量的知識のクライの差が情報量にあるとすれば、電磁石の極性は定性的だけど下手な定量的知識よりは情報量が多いのです。

 もっとも、そういうチェックポイントをいちいちチェックしなくても、電池と導線を持ってきて磁極のあいだに置いてみれば、簡単にわかることではあります。そういう意味でやっぱり情報量は1ビットに過ぎないのかもしれませんが。百ほども電磁石が並んでいて、それを思いどおりの方向に向けようとすると、なかなか困難なものです。ピップエレキバンの磁極は、NとS、どっちが体に向いているか、あれはコントロールされているのでしょうか。されていないような気が、いたしますねえ。

 つまらない話で、どうも長くなりました。とりあえず「電磁石の極性は難しい」と、そう覚えて帰っていただければ幸甚であります。ありがとうございました。


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