大西洋は何の訳

 昔、ふと思いついて書き留めたものの、今までほったらかしにしている疑問である。太平洋という海について、昔日本人は何と呼んでいたのだろう。「太平洋」というのは、マゼランが一六世紀につけた名前を日本語訳したものだと思う。マゼランは大西洋からホーン岬を回って太平洋にやってきて、そこでこの名前をつけたわけだが、それまでは太平洋沿岸には人間がいなかった、わけではない。

 それどころか、誰がいたといってつまり日本人だっていたのであり、この海のこと、列島の南東に広がる海について、何か独自の名前をつけていてしかるべきではないか。「外海」とかそういうつまらない名前かもしれないが、伝統的な名前でなく、輸入した「太平洋」を使うというのは、どういうことだろう。

 このあたりが本当のところどうだったのか、しかし、ちょっと本腰を入れて調べればわかりそうなもので、なぜ調べないかというと、なんとなく「調べないで好き勝手言っているほうが面白いのではないか」という予感がするからなのだが、まあ、もともとの言葉があって、その意味するところを日本語に訳してあるわけなので、それなりに「ちゃんと日本の名前になっている」と言えるのかもしれない。とりあえず「パシフィック海」ではないのである。

 こういう、固有名詞の翻訳というのは、どこまでやったらよいのか、少し難しい。「Holy」という名前があったとして、それを「ホリィさん」とカタカナで書き下すか、名前の意味すると所を日本語訳して名前にするか、である。いや、いくらなんでも「聖子さん」はやりすぎだと私も思うのだが、考えてみると「太平洋」ではそれをやっているわけである。

「聖書から取っただけ」というような名前も中にはあると思うが、幸い、我々の名前は、ほとんどの場合漢字が使われているので、翻訳すべき「意味」があることが多い。「東京」は「east capital」とか、「健志」という名前を説明して「healthy ambition」とか、そういうことだが、「和則」という名前の知人が「sum ruleです」と説明しているのを聞いたことがあって、ちょっとおかしかった。sum ruleというのは、量子力学の方面でちょっと面白い意味のある言葉である。

 それで思ったのだが、こういう翻訳においては、親がどういうつもりでその名前をつけたのか聞かなければ、翻訳などできない、ということがあるかもしれない。「和則」の場合だと、おそらく「sum」の意味でつけたわけではなく、「peace」とか「harmony」のつもりでつけたのだと思うが、「Japanese」という意味をこめた場合だって、ないとはいえない。なんとなく日本語の範囲で「和則」と言っているだけであれば齟齬は生じないが、翻訳するときに違った意味にしてしまうと、これは間違いと言わざるを得ない。翻訳のためには、まず本当の意味を知らなければならないのだ。

 もしかしたらここに書いたことがあったかもしれないが、大西という私の苗字について「『オオナカ』という人の西側に住んでいたことから『大西』とつけたのである」と、私は長いことそう信じていた。亡くなった祖父がそういうふうに教えてくれたのだが、だとすると、大西を「big west」と単純に訳すとちょっと違う、ということになる。むしろ「west of big」のほうが近い。

 ところが、ややこしいことに、どうもこの「大中さんの西説」は誤りであるらしい、ということを最近になって知った。父親によると「大中さんの西」という事実はなく、むしろ近くに「大西」という地名があるので、そこからとったのではないか、ということである。祖父が間違っていたのか、それとも何もかもわかっていて私をだましたのか、そこのところはわからない。父親のほうが間違っていて本当は「大中さんの西説」が正しい可能性だってある。しかし、もしも「地名から取った」ということになると、翻訳は一気に混沌としてくるのである。これを翻訳するには、地名がどうやってつけられたかに立ち戻らねばならない。そこのところを無視して字面から「big west」等と訳することは、あるいは「パシフィック海」に惰することではないか。

 茨城県の水戸に「水戸大橋」という橋があるのだが、そのたもとに「水戸大橋」という看板が立っている。その下に英訳してあって「Mito big bridge」だそうである。英名はそうなのだ、と看板を立てた自治体(たぶん)が主張するのであるから、なんであれそれで正しいに決まっているが、なにか、いかがなものかという気がするのは確かである。「Mito Ohashi」でいいような気もするし、訳すなら訳すで水戸を「Water gate」と訳さなくてよいのだろうか。

 そういえば、この水戸大橋がかかっている「那珂川」の「那」「珂」という漢字には、「白瑪瑙いずこにありや」というような意味はなく、「ナカ」という音に当てた、単なる当て字であるらしい。翻訳に困る。困りつつ、Naka riverはMito big bridgeの下を流れ、Pacific oceanへと今日も流れ込んでゆく。


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