赤べこ小物入れの逆襲

 自分で言うのもなんだけれども、時期を外すということに関しては人後に落ちないこのサイトである。今回も、今話題の「リケニウム」のこと等ではなく、例の「たかが選手」という話をマクラに話しはじめてしまうのである。なんだって科学としてそれでいいのか大西科学。どこが科学なんだ大西科学。ごめんください。

 そもそも世の中には、言ってはならないことというものがあって、その一つは、敵の手によって文脈を離れて何度もなんども便利に使われてしまう発言である。発する前にはなかなか気が付かないことかもしれないが、およそ人の上に立つ者として、そういう言葉をうかつに発することだけは避けなければならない。むしろ、社会でもまれるうちに、そういうことは当然わかっていてしかるべきものである。そういう意味でも「たかが選手」という発言は、何か、あってはならないことが現実に起こった珍しい例のように思えて、部外者としては面白かった。まこと「当然なんとかすべき」などという通り一遍の常識では説明しきれないのがこの世の中である。

 しかし、この話を聞いて私が最初に思った「されど選手」というまぜっかえし方を、その後どのメディアでも見かけなかったのは、少々意外だった。いや、これは私の見聞が狭いだけで、本当は夕刊紙かどこかで誰かにちゃあんと書かれてしまっていた可能性も高いと思うが、何が言いたいのかというと、要するに、それほど「『たかが』といえば『されど』」ではないだろうか。

 この言葉は「たかが野球、されど野球」でよく知られていると思うのだが、無数の応用が効く便利な対句である。あまりにも便利なので、かえってこの「『たかが選手』という発言が出た、しかも野球関係で」という千載一遇のチャンスに誰も使わない、使いにくいということになったのかもしれない。

 本当に、少し手垢がつきすぎているということを除けば、まったく便利なものである。何でも、それはもう何だっていいので、身の回りで目に付いたものアレコレを、試しにここに入れて使ってみよう。

「たかがマウス、されどマウス」
「たかがテレビのリモコン、されどテレビのリモコン」
「たかがコーヒーカップ、されどコーヒーカップ」
「たかが赤べこ、されど赤べこ」

 赤べこというのは会津地方の名物で、なぜか私のノートパソコンの近くにこれがあるのだが、まあそれはよろしい。重要なのは、ここに何を入れても、どんな言葉でも、そのものの「たかが性」と「されど性」に深く思いを馳せる、含蓄のある言葉ができるということである。あなたも、どうか身の回りの大切なもの、つまらないものを次々入れてみてほしい。なるほど、どんなものの中にだって「たかが」と「されど」は潜んでいる。私の懐の中にも、あなたの足の裏にも、ジャムの空き瓶にも。

 似たような、少し広告向けの言葉に「だからこそ大切」がある。「赤ちゃんに使うものだからこそ」というたぐいの、宣伝文句によく使われる表現のことだが、くどくど説明するよりも、まず次の例を見て欲しい。

「毎日使うものだからこそ、いいものを使いましょう」
「滅多に使わないものだからこそ、いいものを使いましょう」

 どっちやねんと思う。両方とも、ある程度の説得力があるように思えるではないか。惜しむらくは、これもコマーシャル等であまりに多用されていて本来のパワーが減殺されてしまった感は否めないが、それでもいくばくかの説得力がある(気がしませんか、どうでしょう)。たぶん、普段使うものにも、滅多に使わないものにも「たかが性」と「されど性」がそれぞれちゃんと含まれているからなのだろう。だから「たかが」と言われても、別に落ち込んだり、怒ったりすることはない。森羅万象、すべてのものは「たかが」であり「されど」であり「であればこそ」なのである。


赤べこはとてもかわいいです

トップページへ
▽前を読む][研究内容一覧ヘ][△次を読む