道路に親しむ一ヶ月

 以前、ここのところに「他人が楽しそうにしていると腹が立つ」という話について書いたことがある。人間とは、悲しいかな元来そういうもので、だからこそ電車の中で他人がメール等を入力しているのを見ると、自分には何の迷惑もかかっていないのに腹立たしく思えるのだ。と、ざっとそういう話だが、今考え直してみると、この説には多少の修正は必要かもしれない。つまり「他人が楽しそうにしていて、かつ、その理由がわからないとき、腹が立つ」ということである。書いてみるとこっちのほうが断然真実に近い気がする。

 どういうことかというと、つまり我々は、楽しそうにしている人が、どういうわけで楽しそうなのか、電話の相手の声が聞こえなかったり、メールの内容がわからないからこそ腹が立つのではないだろうか。楽しい理由が判明している場合であれば、たとえば、電車の中の吊り広告やテレビを一緒に見ているぶんには、べつに腹は立たない。連帯感が生まれるくらいのものである。一緒に乗ってきた友達と話している場合も、見ていて理由がわかるので立腹感は少ない。「最後に笑う者がもっとも鈍い」と格言にあるように、人は、笑いの理由がわからないことにいらだち、不快になるのである。たぶん。

 さて、この話をむし返したのは、最近になって「運転中の携帯電話」が全面的に禁止されたからである。今までだって禁止事項だったのだが、罰金を取られる条件が厳しくなった(電話を使っていて危険を招いた場合だけではなく、電話を使っている事実だけで罰せられるようになった)。おそらくはそれが理由だろう、私の自家用車での通勤路の、途中にある電光掲示板(とは呼ばないのかもしれないが、とにかく道路の上方に据え付けてあって、電球なりLEDなりで運転手に向けたメッセージを表示するあれである)に、携帯電話の禁止を周知する掲示が出るようになった。

 この「一般道の電光掲示板」というもの、実はもうひとつ、役に立つのかなんなのかわからないところがある。本来これは道路情報を、たとえば何キロ先で事故があって渋滞している、というような情報を表示するべきものだと思うが、そんな役立つことが書いてあったためしはない。追突に注意だとか、事故死者急増中だとか、最近では「新潟方面への自家用車の乗り入れ自粛ください」(ここは茨城である)とか、ポスターでも作って貼っておいたら済むようなことを表示してあるに過ぎない。重量税か揮発油税かなにかそういったようなものの、ええと、詳しくは知らないが、まあとにかくお金の無駄である。

 これに関しては、私の実家の近所で面白い話がある。この電光掲示板も、普段とても暇にしている掲示板であった。田舎道の途中にぽつねんと立っているので、まあ、言ってみればこんなところになにか役に立つ情報が、そう頻繁に表示される道理がないし、実際そうなっているのである。事故とか水害とか地震とか、そういう伝えるべき情報が特にないときは、いっそのこと消灯しておけば電気代も助かってよいと思うのだが、そういうわけにはいかないらしい。結果として「八月は道路に親しむ月間です」等と毒にも薬にもならぬことを常時表示している。

 あるとき、私がここを通りかかると、常ならぬことに、この電光掲示板が消灯していた。それだけでなく、なにか、全体的に様子が変である。近寄ってみると、掲示板が、根本から道路側に向かってぐにゃりと曲がって、本体が乗用車の頭上三メートルくらいのところまで、大きくかしいで下りてきている。あたり一面に自動車の窓ガラスやら方向指示器のプラスチックやらの破片が飛び散っていて、つまりどうやら、この支柱の根元のところにトラックか何か大っきいのが突っ込んだらしい。ここで電光掲示板に「頭上注意」とか「ご迷惑をおかけしております」等とあったら面白かったと思うのだが、単に停電している。まことに役に立たない奴である。

 おそらく、こういう場合はトラックの運転手が掲示板を賠償するのだと思うが、そもそもそんなところに電光掲示板などなければ事故にはならなかったわけで、役にも立たない掲示板が一台のトラックを大破せしめたと、言えば言えるのではないかと思う。それはともかくとして、ほどなくその掲示板は再建された。こんなものでもないと困る人はいるわけである。今日もたぶん「子供とお年寄りに注意」「早めのライトON」というようなことを主張しているはずだ。

 運転中の携帯電話の話だった。確かに、あれは危なく感じる。運転中、私の後ろについた車の運転手が電話をしていると、なんとも言えない不安が胸に迫ってくる。今まで一番恐ろしかったのは、後ろのドライバーが週刊誌を広げて読み出したときだ。確かに、慢性的に渋滞しているので危険はそれほどでもないといえばそのとおりなのだが、今にも追突されそうで、渋滞の車列が少し動くたびに恐ろしくて、本当に、下りていって何か言ってやろうと喉元まで決意しかけた。魅入られたように観察を続けたのだが、週刊誌を読み終わったなと思ったら、今度は新聞を取り出したので、さすがにこれには頭にきた。コロす、と思った。私の想像の中ではあのドライバーは口に新聞紙を詰め込まれた姿で鹿島灘に浮いている。

 週刊誌は極端だと思うが、こういうものの中で、なぜ携帯電話だけが禁止されるのか、という議論はあってしかるべきだ。CDを聞いたり、エアコンを操作したり、車中の他の人と会話をしたり、夜なのに色眼鏡をかけたり、せんべいを食べたり、特に禁止されていないが、実は危ないことはいろいろある。たとえば「よそ見」というのが、携帯電話どころでなく交通事故の主要な原因になっていると思うが、「運転中よそ見禁止(よそ見をしたところを警察官が発見したら普通車で六千円の罰金を科す)」という法律を作るのはちょっと行き過ぎだし、なんとなく出生率とかが減りそうな気もする。

 運転中如実に分かることだが、人間にはある一定のキャパシティ、ちょうどパソコンの処理能力のような容量があって、同時に処理できる物事の総量は決まっている。必要能力はダイナミックに変化し、たとえば車の運転ということでは、まっすぐの道を普通の速度でドライブしている場合などは比較的少なくなり、暗かったりスピードを出していたりするとこれがちょっとずつ多くなって、交通量の多い道で対向車のタイミングを見計らって右折するような場合はうんと多くなる。この処理容量の余裕を減らしてしまうので、予期しない事態への対応が遅れるというのが、ハンズフリー装置を使ってさえ運転中の電話が危ない理由の一つである。

 実際、家族と乗っている場合、運転が難しくなる勘所ではちょっと会話していられないので、こういうときは自分のCPUパワーを使い切っていると感じる。娘などに不興を買っているのだが、話し掛けられても返事ができなくなるのだ。ただ、CDやエアコンの操作なら右折時等にはしなければよいし、会話の場合も同乗しているならなんとなく話し掛けてよいタイミングというものがわかるはずなので、電話の場合はその点、緊急時にもお構いなしの、悪質なことになりやすいということはあるかもしれない。つまり「電話の相手が離れたところにいる」というのが、他の要素と異なり、電話が特に危ない点ではないか。程度問題であるし、全面禁止というのは、過剰な処罰感がある、他人の電話が楽しそうで、腹が立つからに違いない。

 掲示板の話を忘れていた。要するに、私の通勤路の電光掲示板に、こう書いてあったのである。
「運転中の▼携帯電話は▼ぜったいダメ」
ぜったいダメ、のところは赤字でとても大きく書いてあるので、そのつもりで読んでくださると嬉しい。

 法律は法律であり、交通ルールはぜったい守らねばダメだ。そらそうよ。しかし、なんというか、自らの経験を踏まえて、また私の虚心な言語感覚に照らし、ぜったい、ちうことはないんちゃうんかなー、と思うのである。「ぜったいダメ」と発言するのは、本来ふさわしい場面、殺人や麻薬や飲酒運転や、それに運転中週刊誌を読むことなどに取っておいたほうがよいのではないか。携帯電話がぜったい禁止なのに、運転中隣と無駄話をしてよいということにはなるまい。こんな掲示はぜったいダメ、というほどでは、いやまあ、ないんすけどね。


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