イメージデータがきわめて少ない

 上の写真は私の娘(3歳)と息子(1歳4ヶ月)であるが、この画像のファイルサイズは16キロバイトである(と、ファイルの情報に書いてある)。

 もちろんこれはデータを圧縮した後の数字であり、あなたが今見ている状態(展開後の状態)ではこんなものでは済まないのだが、それでも、サーバ容量やデータ転送上必要な容量ということでいうと、この16キロバイトという数字が適用されるわけだ。あらためて見てみて、ちょっと驚いた。やけに少ないではないか。

 私はこれまで600回くらい文章を書いてきて、一番長いものは第429回の「あんたばかね」という文章である。12.1キロバイトだった。これはタグを含んだ数字で、この文章には表がいくつか含まれているので、実質的には二位の「ひかりのくに」(11.5キロバイト)のほうが長いことになるかもしれない。とにかく、特に長い目の文章に関しては、私は10キロバイト程度のものをよく書いていることになる。とすれば、この画像とさほど変わらない長さを、文章自体が持っているわけだ。文章の2倍程度でしかないというのは、どうもイメージ(と書くとややこしいが、画像は文章など話にならぬくらいの容量を食うという私の印象)とは異なっている。

 上のような子供達がまだ生まれていなかったころ、私は、このような文章中心のサイトには、画像はあまり使わないほうがよい、と信じていた。理由を端的に書くならば、新屋さんが「雑文館」というサイトでそう主張していたからだ。古くから「このあたり」にいらっしゃる方にはおなじみだろう。こんなのである。

普通の感覚(の、つもり)事項
・ブラウザに依存しない。
・画面サイズに依存しない。
・ウインドウサイズに依存しない。
・フレーム機能が使われている場合は、クライアントの様々な環境に充分に配慮している。
・不必要にテーブルタグを使用していない。
・イメージデータがきわめて少ない。

 これは新屋さんの掲げる「『読みに行こ』のモノサシ」(の一部)である。20箇条ほど挙げられた中で最後に書いてあるので、比較的軽く見ている事項なのかもしれないが、あの頃(というのは、7、8年くらい前)のインターネットに残っていた雰囲気を伝えていて面白い。確かにその頃、帯域は狭く、マシンパワーは貧弱で、ブラウザはみんなバラバラの種類を使っていたから、このような心がけが必要だったと思う。遅いモデムを使って時間制で見に来てくださる方に対して、さほど意味のない大きな画像は失礼にあたるのである。

 たぶんその頃の癖があって、私は大きな画像や高度なタグを使うのに、今でもわずかな罪悪感を感じる。といってもだんだんそのへんは曖昧になってきていて、最近のぶんを読み返してみると、センタリングやテーブルタグ、画像や上つき文字(a2の2)を使っているのだが、今やほとんどの人がブロードバンドないし少なくとも定額制で、パソコンの処理能力は高く、ブラウザはあれかこれかさもなくばあいつに決まっている。その上に、今回確かめたように、ちょっとした画像くらいは、実はさほどの容量でもないのだ。

 上の画像はさまざまなことを語ってくれる。雑文2本くらいの長さを費やして、私はこの写真を説明しきることができるだろうか。無理だと言いたいところだが、正直、なんとかなりそうな気もする。それに、ある種の携帯電話においては、上の「『読みに行こ』のモノサシ」は精神としてまだ生きているのである。

 どうもまとまらないが、私が「大西科学」を始めてから8回目の春を迎えた。「イメージデータがきわめて少ない」であるためには、その意味においても、まだまだ私の文章には努力の余地がたっぷりある、と思う。


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