なぜなら喧嘩はものではないから

「ことわざ」というものは、必ずしも正しくはないものである。ではことわざは間違っているか、嘘ばっかりか、というとそれも言い過ぎであって、何か現実に役に立つことを述べてはいるのだが、その価値は「正しい」ということによって測られるものではない。一例を挙げると、
「大は小を兼ねる」
「長持枕にならず」
がどうだろうか。素朴には、この両者は正反対のことを主張していて、であれば当然、これらが同時に正しいということはありえないように思える。

 もっとも、まず前者のことわざに関しては、これはなにも「すべての大が小を兼ねる」という強い主張ではないと考えることもできるだろう。つまり、

「(言うまでもなく人生はさまざまであるが、時として、場合によっては)大は小を兼ねる(ことがあるかもしれない。そして今回はその場合ではないだろうか)」

 こう捉えるならば、特に他とは矛盾していない。長持のほうはさらに簡単で、落ち着いて見ればこれはナガモチとマクラについて述べているだけで、それ以上はもう何も言っていないのである。ナガモチ以外マクラ以外の事柄については、各自の判断で個々に評価せねばならない。いわく、

「(ああ、今我々が遭遇したこの状況、大きいものをもって小さいものを置き換えることができないという状況はまるで)長持枕にならず(であるかのようで、こう例えることで状況を把握する一助になるのではないだろうか)」

 他にも「豚に真珠」「弘法も筆の誤り」のように、いざとなると「え、なんですか、私は豚のことを言っただけですが」と言を左右にすることわざは多い。ずるいのである。

 ずるくはないが、そもことわざというものは、「一見正しい」「一面だけを取り出せば正しい」程度のことを、あれこれ言い訳せずにあえて短く要約し言い切ってしまうことによって、かえって魅力が出てくる面があると言える。ちょっと考えただけでも、

「勝てば官軍(となることが多い。絶対ではない)」
「雨降って地かたまる(こともあるかもしれない)」
「長いものには巻かれろ(しかし結果は保証できない)」
「夫婦喧嘩は犬も喰わない(もちろん人間も猫も猿も喰わない。なぜなら喧嘩はものではないから)」

というようなものがある。「早いリーチはイースーソー(とは限らないよなあ)」とわかってはいるが、えいやっと言い切ると妙な迫力があるし、だいいちゴロがよくて格好いい。そういえば「マーフィーの法則」など、確かにこの、間違っていることを言い切る系の格言である。ことわざはこうやって生まれるのかもしれない。

 さて、本日のテーマは、ことわざとはちょっと違うような気もするが「運も実力のうち」である。この言葉が、どのような意味で使われているかに注意したい。大まかな議論をすれば、もうこれは、

「運も実力のうち(ではない)」

と述べるしかないと思われる。先走って言うならば「この世に『運』などというものはない」からであるが、運はふつう実力とはみなされないものなので、「急がば回れ」とか「負けるが勝ち」のように、もともと逆説的な言葉である。

 いや、急がば回れだ。そう急がずに、最初から考えてみよう。あらためて解釈すると、まずは「運」というものを信じる立場がある。運という言葉は、偶然の単なる言い換えとして使うこともあるが、ここでは、人にはそれぞれ「運」というものが備わっていて、しかも運には一連の文脈で解釈される「流れ」のようなものが存在する、と信じている語り手を想定している。「運勢」という言葉を当てるとより明確になるかもしれない。要するに、ついてきたり失ったり尽きたり巡ってきたりする運である。こういう「運」が存在すると考えている人が、

A:「運(というものが現実に存在し、それ)も(また各個人に備わった)実力のうち(である)」

という意味で使うものである。真の実力者は運をも味方につけることができる、気迫は運を引き寄せる、というような解釈も、類似のものとして含まれるだろう。しかし、さっきも書いたが、この場合の運、運勢という意味での運は、いかに実在感があっても、実際には実体のない概念でしかない。サイコロに記憶力はなく、当たりやすい宝くじ売り場はなく、実力者を矢が避けて通るなどということは現実にはないのである。

 などと、私などが事々しく書くまでもなく、実際には、現代社会においてこの意味での「運」を信じる解釈が主流かといえば、さすがにそんなことはないと思う。ちょうど「誰かに噂をされるとクシャミが出る」と同様に、今や大多数の人にとって運勢は現実の存在ではなく、もう少し比喩的な、あるいは作劇上便利な虚構として捉えられているのではないか。

 この、やや現実に醒めた考え方では、こういった解釈がされているかもしれない。

B1:「(もちろん)運も実力のうち(ではないが、偶然によって敗者となった私はあえてそう考え、自分の心を少しでも慰めようと思う)」
B2:「(もちろん)運も実力のうち(ではないが、偶然によって勝者となった君はあえてそう考え、自信をもって次の戦いに挑みたまえ)」
B3:「(もちろん)運も実力のうち(ではないが、勝敗は運だと諦念を抱くことは建設的ではないので、実力で負けたのだと納得しよう)」

 他にも無数にバリエーションが考えられるが、つまり「運はむろん実力のうちではないが、言葉は便利に使おう」という、斜に構えた用法である。「占いはいいことだけ信じます」「血液型性格判断は会話のきっかけとして有用である」という立場に近い。このようなご都合主義的な解釈は、世界に運を信じる人がまだまだたくさんいる中でしか使えない、科学の原理や方法が人々に浸透してゆく途中の、過渡的なものかもしれないのだが、一方で、現実に我々が人間という生物の脳のシステムに依拠して思考する存在である以上、そして我々の脳が現実にパターンを見出す「パターン発見器」である以上、もしかして絶対になくならない類の使われ方であるのかもしれない。

 もっと冷淡に「運」を否定する立場もある。やや強引な解釈にも思えるが、

C:「(ある勝利が純粋に)運(のせいに見えたかもしれないが、実はそうとばかり)も(言えず、必然が働いているのであり、実はすべて勝者の)実力(による計算)のうち(なのである)」

という主張が考えられるだろう。「も」が無理な感じがするが、ええと、これは運の肯定否定ということで言うとAの対極に位置する考え方で、極端なことを言えば「世の中には偶然などなく、すべて必然なのだ」という発言になる。戦記もので、信長は運で敵を打ち破ったのではなく、すべて計算ずくだった、というような場面で用いられる用法である。もちろん「世の中には偶然などない」とまで言うと極端になってしまって、それはそれで問題がある。運勢ではなく偶然そのものを否定してしまうのは、必ずしも科学的な立場とも言えないわけだが、ややソフトな主張として、

D:「(最終的には運ではあるが、運に頼る場面を可能な限り少なくし、リスクを極限した上で賭けに出た。つまり、ふつう)運(に頼る部分)も(そのほとんどを)実力(でもって代替した)の(である。まさに二百三こ)うち」

というふうな使い方も可能なのではないか。「運も実力のうち」という言葉にここまでの意味をもたせるのはいくらなんでも無理であるという気がしないではないが(特に二百三高地のあたり)、科学的な知識との間のバランスが良い解釈だと思う。「人事を尽くして天命を待つ」という言葉もある。ではそう書けばよいのだが。

 確かに、世の中は運がすべてではない。投機など、ある賭けに成功して億万長者になった人物がいたとして、誰もが彼になれる可能性があったかというと、そんなことはない。少なくとも最初に賭けに打って出る勇気がいるし、何がなんでも危険を冒せばいいというものではなく、的外れな推測を除き勝率の高い賭けを見抜く、というような分析能力も必要になるだろう。

 もちろん、なみはずれた偶然があれば、まったくのデタラメな投資が大当たりして結果として億万長者、ということもありえるわけだが、多数の「成功者」を全体として、均して見たときに「極端な偶然の結果大金持ちになった」という人と「必然を積み重ねてプラス少しの偶然で大金持ちになった」のどちらが多いかというと、それはもう後者に違いない。つまり、総じてDの意味が正しい、ということができるのである。

 ただここで、横から見ていると、あんまりそのことが明らかではなく、どちらかというと「あの人が成功したのは運が良かっただけではないか」と見えてしまうのは、困ったことである。誰が見てもコツコツと努力して成功した人ではなく、日常で思いついた発明が年一億稼ぎ出す、とか、株で一発長者番付一位とか、デイトレードで年収三千万、とか、そういう成功話は人口に膾炙するし、わかりやすい。人生に必要なものはただ一つ、運である、という主張が、もっともに思えてしまう。

 運のみで人生は成功することができる、どんな努力も運には勝てない、ということが広く信じられる社会は、あまりよい社会ではないと思う。ではどうすればいいのかと言われると私には答えなどないのだが、運が実力として単純に評価される社会ではいけないのは確かである。

 などと、人生訓めいたことを書いているガラでも場合でもないが、要するに、単に拾った運ではなく、Dの意味でつかんだ運であれば、他人の見る目も、得た富の使い方も変わってくるのではないか。ちゃんと「悪銭身につかず」ということわざもある。いや、これだって普遍的な真理ではなく、

「悪銭身につかず(とは限らない)」

であるところが、惜しいところなのだが。


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