タイトルのひみつ

 出版からちょっと間がある本なので、既に手に入れにくくなっているかもしれず、また、面白いから読んでみて、と薦めるものではないのだけれども、J.P.ホーガンの「揺籃の星」(上下巻、創元SF文庫)は、ヴェリコフスキーの「衝突する宇宙」という、有名な疑似科学の本をふまえ、もしもこの主張がすべて正しかったら、というアイデアで書かれた冒険SFである。

 私にも、経験がある。今もときどき思い出すのだが。よくできたテレビ番組を見ていて、ふと、もしも、今まで営々と築き上げてきた科学的常識が、ぜんぶ間違っていて、はじめは荒唐無稽に思われた主張(UFOなど)が真実だったらどうしよう、いったいどうなるだろう、と思えた瞬間。もしも「揺籃の星」がそういう話であったなら、これは大傑作になり得た話かもしれない。少なくとも私があのとき感じた、足下がぐらぐらするような感覚をもう一度味わわせてくれるものだったなら。

 しかし、事実は残念ながらそんなことはなくて、単に「衝突する宇宙」を信じた人が、信じたままの状態で書いたもののように見える。作者が本当はどう思っているのか、何か狙いがあってわかっていてやっているのかはもちろんわからない。が、ともかくそう見える。どうにも思うに任せない。解説で金子隆一氏が書かれているように、
「SF読みとしてのあなたの度量を測る試金石ともなるだろう」
なのかもしれない。正直、私は読んでいて苦しかった。

 そんな中に、決定的とはいえないが、心にいつまでもひっかかる一言があった。この世界においては、地球の科学者たちは、頑迷で、議論のための議論の技術に長け、時には汚い策略を使い、主人公たち(地球の科学者と対置される、クロニア人という、土星の衛星への移民社会があって、つまり彼らがヴェリコフスキー説の代弁者である)の主張を信じようとしない。

 私の欲目かもしれないが、地球の科学者たちとてただの悪役ではなく、彼らなりの守るべきもの、健全な常識や手順というようなものがかいま見えてほっとすることもあるのだが、ひっかかる一言というのは、そんな地球の科学者たちを評して、クロニア人のひとりが使う言葉である。
「あの一件でわかったのは、クロニアと地球の科学が協力するのは不可能だということ」
 悲しかった。苦しみながらも読み続けていた私は、ここで最後に切り捨てられたのだなと思った。「なんとか人の科学」「なんとか科学」という言い方は、歴史を扱った小説などでときおり見かけないことはないが、どれもたいへん悲しい。たぶん私は、ほかのいろいろな人間の営みのなかで、唯一科学だけは「日本人の科学」「アメリカ人の科学」というようなものはない、唯一「科学」というものだけがある、と信じたいのだ。たぶん。

 などと、妙に暗くなってしまったが、そんなことを言いつつも、出張中、ほかに読む本もなく、ついに最後まで、しかも後半の冒険シーンなどけっこう面白く読んでしまったので、あまり責めてもいけない。むしろ、読んでいろいろ思うところがあったので、感謝すべきかもしれない。しかも、読みながらずっと、地球人の科学、地球人の科学、と繰り返し考えていて、あることに気がついた。そして、ある種の「戻れない橋」を自分が渡ってしまったことに気がついたのである。

 少々手前味噌かもしれない。このサイトの名前である。これだ。

「大西科学」

 私は、これを科学を冠する企業ないし研究所の名前のつもりで名付け、使っていたのだが(みんなもそう思ってるよね?)、ここで、今やこの言葉に新たな意味が付け加わったのである。「地球人の科学」がある。「異星人の科学」がある。「クロニア人の科学」や「アーリア人の科学」だってあるだろう。そして「大西科学」があるのである。

「地球人の科学」
「クロニア人の科学」
「大西科学」

私は、力及ばぬところは多いながら、今まで学び使ってきた科学的な知識をもとにしてこの雑文を書いてきたつもりであった。しかし、違うのだ。実は私が書いていたのは、科学ではない。

「大西科学」

なのである。なにがなんだかやぶからぼうだが、大西科学と科学は相容れないのである。ついにわかり合えることはないのである。いや、むしろ、私の書くことと言ったら、

「大西科学」

なのであって、昔よく世話になった伯父であるところの科学に対してなんら義理立てする必要はないのである。いやあ、なんだか気が楽になった。ありがとうホーガン。ありがとうクロニア人。でもやっぱヨタはヨタかもしれないぞ、気をつけろ、ジャッキー大西。


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