暮れてゆく、空は

 長距離走が苦手だった。なぜだかはわからない。

 運動自体、実はそれほど不得手なほうではない。スポーツ万能とはいかないけれども、短距離走や鉄棒ではまずまず、クラス平均くらいの成績だったし、跳び箱のように、はっきりと周囲よりうまくこなせる種目さえあった。ただ、全体的に見てみると、長距離走、これがあまりにも遅くて、私の運動能力平均を「ふつう」から「ダメ」の領域まで引っ張り下ろしているのだった。どうしてあんなにも苦手だったのか、なぜ友達と走ると必ず周回遅れにされてしまったのか、全くわからない。走っているときに、いろいろと考えてしまうのがよくなかったのかもしれない、あるいは、甘やかされて育った私には「根性」というものがないだけかも。

 そんな小学生の私が迎えた、ある秋のことだ。担任の先生が教室の後ろの壁に、一枚の大きな日本地図を貼った。関西から関東に至る日本地図の一部を示したもので、大阪をスタートに、東京までの道のりが示されている。先生は私達に告げた。これから毎朝、授業の前に全校マラソンがあります。時間までに何週走れたかを記録して、距離に換算します。そうして、これから三学期の終わりまでの間に、どこまで走れたかをこの地図に記録しましょう。

 東海道(…は京都起点だから、厳密には国道一号か)の大阪−東京間というと、六〇〇キロにちょっと足りないくらいである。十月から翌年三月までの半年間の出席日数から、雨や雪の日、その他の行事を差し引いて、合計で百日弱。完走するには、一日六キロ前後を走らねばならない計算になる。これはいくらなんでも、普通の小学生にはちょっと無理な距離だ。だからたぶん、細かいところは覚えていないのだが、なにか「ごまかし」、そう言って悪ければ、簡略化、ゲームバランスの調整がされていたはずである。東海道五三次の各宿場町間の距離を勝手に二キロメートルにしてしまい、一周二百メートルのトラック一〇周で一つコマを進めることができる、とか、そういう感じのなにか。

 それにしても。遥かな、東京。

 身を切るような冬の朝、ぐるぐると同じトラックをまわるばかりの全校マラソンが、こうした具体的な目標で、ある程度は達成感あるものに変わるという、これはそういうものだったのだろう。つまり、長距離走が得意な、クラスの誰か他の子らにとってはそうだったのかもしれない。私には違っていた。まったく違っていた。あの地図は、自分がいかにどうしようもなく駄目な存在であるかを、誰にとっても目に見える形で掲示する存在でしかなかった。

 私が一日に五周を走る間に、他の子はおおむね七、八周を走る。全校マラソンがスタートしてほんの一週間ほどで、私は友人たちからすっかり置いてゆかれてしまった。次の、また次の宿場町を目指し、互いに競争しあって記録を伸ばしてゆく友人たちを尻目に、私は、かれらの無数の足跡によって踏み荒らされた道を、たった一人、とぼとぼとついて行く。昼寝をしない兎を追う亀。いや、アキレスを追う亀だろうか。決して追いつけない追跡行である。日々、先行者の足跡はどんどん不確かになってゆき、周囲にいるわずかな同行者にさえもゆっくりと置いてゆかれ、ついには引き離されてしまう。

 私は思った。どうしてマラソンはこうなのか。他の教科の成績を壁に貼り出したりはしないじゃないか。どうもマラソンというもの、身体的能力の一側面としてよりも、その子の「根性」の度合いを測るところが大きいと思われているので、それでこういうことになっているのかもしれない。私はクラスいち根性のない人間として、毎日たっぷりと悲哀を味わっていた。本気で、学校なんてなくなってしまったらいいのに等と思っていた。こういう状況下で、なにくそと頑張れる人は、たぶん何らかの形で歴史に名を残す資格のある人ではないかと思う。

 ところで、その頃の私には、クラスに一人、気になる女の子がいた。その子のことが好きだったのか、またしても「わからない」と書くしかない。実際問題として、気持ちを形にすべく、何かアクションを起こすべきだとも思ってはいなかった。ただ、なにか、名簿の上に黄色いマーカーで線を一本、引くような感じで、気にとめていたのである。そして、気になっていたのはそれが原因ではないのだけれども、その子の長距離走は、決して侮れないものだった。

 その子は、私とは違い、強い意思を持っていた。あるいは、小学生の女の子というのは、私のようなだめな男子小学生と違い、そういう美質を最初から持っているのかもしれない。彼女は体も大きいほうではなく、それほど運動が得意とは言えないのに、断固として彼女は走った。ますますやる気を失ってゆく私とは違い、着実に、毎日の周回を稼いでゆく。先頭集団とは言わないまでも、二番目の集団というレベルを維持していた。そして、それもまた、私にとっては気鬱の種なのだった。

 年が明けて、冬はまだこれからだけれども、少しずつ日が長くなってきた頃。私は遅れを少しでも取り戻すべく、放課後を走っていた。その日に限り、どうしてそのような殊勝な気持ちになったものやら、そこのところはよく思い出せない。おそらく、その日の朝他の用事があって走りそこね、放課後代わりに走ることを命ぜられた、とか、そのへんの事情だったと思う。とにかく、朝に比べれば少し寒さも緩んだ授業後に、私は校庭のトラックをとぼとぼと走っていた。

 私がひとり、走っているトラックの周囲には、運動場のまわりに据え付けられた遊具や、ドッジボールで放課後を遊んで暮らしている友人たちの姿が見える。これで四周、五周を走ったところで、なんになるのだろう、と私は思っていて、そういう邪魔な気持ちがある人間は、世界を改良する技術者にはなれるかもしれないが、オリンピックの運動選手にはなれないものである。頭の中には、少しでも速く走るにはどうすればいいか、というようなことはまったくなかった。むしろ、前に図書室で読んだ数学の話とか、そういう関係のないことで気を紛らわせようとばかりしていた。

 と、トラックの向こう側に、女の子が一人、走っているのを私は見つけた。速度はそれほど違わないので、あまり距離も縮まらない。それどころか、速度差からして「追いつかれる」のは私の方だろうと思えた。私は、目を凝らしてその人影を見た。あの子だった。

 私は、胸が高鳴るよりも、なんだよ、と思った。舌打ちしたいような気分だった。せっかく放課後まで走っているというのに、あの子も走っているのであれば、ちっとも追いつけないではないか。いいところを見せるどころか、それで完全にやる気をなくした私は、その場で立ち止まって、トラックの内側に外れ、座り込んだ。一生懸命走ってもいないくせに、息が切れていた。冬の冷たい空気で、肺が焼けるようだった。息が白い。

 女の子は、見守る私の視線の先で、ゆっくりとトラックを回り、私の座っている前まで来た。私はずっと座っていた。そうして、通りすがり、あの子が私の方に向けたのは、どういう目だったろう。軽蔑の混じったものだったろうか。それとも、それさえも自意識過剰というものであり、さしたる感慨もないものだったろうか。ただ、私のすぐ横を通るときに、こう言ったような気がした。いや、言ったのである。

「待ってるから」

 は、と耳を疑って、私は彼女の後ろ姿を見送った。何が「待ってる」のだろう。彼女は今も私を引き離しつつあるではないか。私は、立ち上がり、半ズボンの尻を叩いて土を払うと、しかたなく走り出した。依然として、距離は開き続けている、が、今度こそは、座っているよりはましな気分だった。

 その子が遠くに転校する、した、という話を聞いたのは、その次の朝の「朝の会」のことだった。なにか事情があるらしい、急な転校で、どのくらい急かというと、その日はもう、彼女は学校に来ていないくらいで、私はただひたすら驚き、どうしようもないことをいろいろと考えて、その日の昼休み、私は教室の後ろの壁の、マラソンの記録用紙を見に行った。彼女の記録は、私の情けないそれよりも、ずいぶん先へと伸びていて、そして、はっきりと覚えている。静岡県に描いてある、大きな湖の中央でぴたりと止まっていた。やけに、きりのいいところだった。

 私の記録がそれでも伸び続けるのに対して、あの子の記録は、その冬、それ以上増えることは決してなかった。そうして、彼女に「待って」いてもらってさえ、ついに逆転できなかった私がいかにだめな男子小学生だったかを考えると情けない限りである。ただ、その次の朝から、もう一周、トラックをよけいに回ろうと努力をしたのは確かである。おそらくは、その「もうちょっとだけ頑張る」という気持ちこそが、私が得るべき最大の収穫であったかもしれない。壁の日本地図は、依然としてそれを私には与えてくれなかったけれども。


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