ほとぼりは冷めましたか

 ほとぼりは冷めましたか、もう冷めましたか、とうるさく訊くと、その訊くということによってほとぼりが冷めなくなるという機構があって、これは「見ている間はお湯は沸かない原理」とたいへんよく似ている気もする。熱的には逆方向だけれども。それはともかく、これから書く話は自分でも長い間忘れていたので、しめたこれは首尾よくほとぼりが冷めた、と思っているのだがどうだろうか。

 昔、私が契約していたインターネットサービスプロバイダ(つまり、OCNとかSo-netとかそういうやつのこと)が、利用者にメールマガジンを送ってきていたことがある。メンテナンスのお知らせなど、プロバイダのサービス上必要な情報とは別に、拾ってきたニュースやよもやま話を中心とした話題を満載したメールが毎日来ていたのだ。今から思うと変わったことをするものだと思うし、不要であれば断ることもできたはずだが、そうはしなかった。というのも、私はこのメールマガジンを愛していたからである。思い返すだに、私は本当にこの、メールマガジンのことを愛していた。

 いや、字義通り、素直で建設的な「愛」であれば、ほとぼりなんか冷ますことなく正直に書けばよい。プロバイダの担当者も喜んだろう。そうはしなかったのはもちろんその「愛」に問題があったからで、つまり歪んでいたのである。私の愛は、ぶにゃりと歪んでいた。同時期に同じプロバイダから提供を受けていたホームページサービスにさんざん苦労させられた、という経緯があるからかもしれないが、私の面白がり方は意地悪で、まっとうではなく、公にすると私の品性が疑われる類のものだった。断言はできないが、書いている人の意図とは異なる点を楽しむ類の、例のアレだと思う。

 内容もさることながら、まずもってこのメールマガジンには読みにくい文、間違っている文、悪文が多かった。簡単に悪文というが、最近、個人のホームページやブログなどを見ていても、本物の悪文に出会うことは滅多にない気がする。私の語学的なセンスのレベルが低くて、許容範囲が広いだけかもしれないが(それに文章のことを言えば私自身はどうかという問題もあるが)、私の印象としては、まずどのような人でも、たいてい皆、立派に意味の通る文章を書いていると思う。変だなと思うことがあっても、どこか一部を取り出し、ほらここがおかしいでしょうと示したり、ぱっぱっと添削してすっきりと論理もさわやかユーモアもある文章に書き換える、なんてことは容易にはできない。

 そう、つまりそういう意味で、そのメールマガジンは悪文だったのである。どこか一部を取り出し、ほらここがおかしいでしょうと示したり、ぱっぱっと添削してすっきりと論理もさわやかユーモアもある文章に書き換える、なんてことができた。そして、とりわけあるコラム、週に一回あった連載記事がすごかった。私は、ずいぶん長いことこのあたりに住んで、いろんな人の文章を読んできたが、他でここまでの悪文に出会ったことは一度もない。仮に悪文を芸とすれば、お金を取れる芸になっていると思う。などと書くと褒めているんだか貶しているんだかわからないが、だから、ぶにゃっと愛していたのだろう。とてつもない悪文だが、書いている本人が楽しそうなのがよい。

 私は考えた。この貴重な悪文が、ただインターネットを通り抜け、読まれているんだかどうだかわからないメールマガジンのかたちで消え失せてしまうのはあまりにも惜しいと。かといって、どこかに勝手に再掲したりするのは、いくらなんでも大胆な態度に過ぎる。そこで私は、コピーを保存すると、とりあえず私なりに「ここはおかしい」「こう直せばとりあえず意味は通る」という注釈を入れ、さらにHTMLの体裁を整えてブラウザで閲覧できるようにした。これが公表できないことは分かりきっていて、というのは、著作権の問題もさることながら私があんまり意地悪に見えるからだが、だからこれはそのままの状態で、今も私のノートパソコンのハードディスクに保存してある。私はこれをときどき読み返しては寂しい夜をハッピーに過ごしているのである。

 さて、そんなコラムのある回で、ネットワーク上での意見交換の様子について、コラム筆者が持った感想を書いたものがある。あるサブノート(という言葉も使わなくなったが、普通より軽いノートパソコンのこと)の発売前の噂話と、発売されてからの評価がさまざま語られていたらしい。筆者がそれを通して見て思ったことには、意見が首尾一貫していない上どうにもネガティブでいやだ、と、そういう話だった。発売前は「今売っているのはここがダメ、さっさと新しいのが欲しい。その際、これこれこういうのが欲しい」という意見をよく見かけ、それが発売後は「これなら前の方がよかった、新しいのは買わない、前機種の復活を希望」というものが支配的になった、なんだかおかしくないか、ということなのだが、なんだか心に残って、ずっと覚えている。

 なにしろ悪文なので誤解しているかもしれないが、コラム筆者の言いたいことはたぶん二つある。「前後が矛盾しているではないか」と「批判の為に批判しているのではないか」だが、よくよく読むと疑問が生じる。まず、前の機種はダメだと思っていたけど新しいのが発売されてみると想像とは違ってさらにダメ、これならまだしも前の方がよかった、と言っているとしたら、これはシニカルではあるけれども、別に前後矛盾はしておらず、立派に首尾一貫した態度に思える。

 しかし、仮に前後矛盾していることを認めたとしても、それが個人への批判として当たっているかどうかは別問題である。確かに、世の中には口の悪い、あまのじゃくな人はいて、否定的な意見を述べる斜に構えたスタイルを確立してしまっている場合もある。しかし同時に、もう一つ見落としがちな点があると思うのである。それは「本当に同一人物の発言か」ということだ。

 つまり、新機種発売前の噂の段階では「今のじゃダメ」だという声が大きくなり、発売後はこれに代わって「前のを販売中止しないで」という(別の人の)声が大きくなる、ということはないだろうか。何でも批判的な書く「斜に構えた人」が何人かその場にいるのは確かでも、その他大勢の声の大きさの変化は、背景効果としては無視できない。発言を斜め読みして、意見全体を「世論」と捉えた場合、これではみんなが心変わりしてしまったように思えるのではないか。

 もちろん、実際にどんな人がいてどんな発言があったのかは想像であるし、何度も言って申し訳ないが悪文なので私が経緯をちゃんと読み取れていない可能性も高い。当時彼がのぞいていた掲示板なり何なりは、実は本当に前後矛盾したことを言って恥じないアマノジャクに満ちていたのかもしれない。しかし、このコラムの真偽または是非はともかくとして、日常のさまざまな状況において「声が大きいので多数派に見える」効果は確かにあると思うのである。

 考えてみれば、過激な思想を持つ人ほどあちこちでうるさく自分の意見を触れ回る、というのは実にありそうなことである。ぼう、と掲示板などを見ていると、これから日本はどうなってしまうんだろうと思うが、少数派が社会に危機感を持っているからこそ発言をするのであって、自分が多数派であり、社会に意見が十分反映されている、と感じている場合は単に黙っているのかもしれない。自分に関係する産業分野が危殆に瀕している場合のみ、人は大声で騒ぐわけだが、うまくいっているときはそのことを宣伝したりはしないので、第三者には景気はいつも悪い気がする。そして気味が悪いほど調子のよい今年、阪神タイガースファン(私)は黙ってニコニコしているのだ。

 ちょっと昔の本を読むと、各界のさまざまな科学者が、異口同音に人口爆発について懸念を表明していることに驚かされる。地球上の資源が有限であるのに対して、人口の延びは対数的であり、近い将来、法律で子供の数を二人までに制限するなど抜本的な対策を行わなければ、必ずや大惨事が起きるだろう、という予測である。こういう設定で書かれている未来を扱ったSFも実に多い。

 しかるに今、この国における大きな関心事といえば「少子化」である。子供が少なくて困っているということなのだが、考えてみれば、これは、これまで科学者たちが望んでも(こんなに近い将来には)決して得られまいと思っていた理想の状態なのである。日本においてはもはや人口は縮小傾向にあるわけであるが、であればなあんにも困ることなどないのではないか。世界的にはまだ人口は増加しているものの、こと日本に関しては、人間が減って環境も安心、住宅事情も解決して万々歳ではないのか。ではなぜ騒ぐのか少子化。あるいは、なぜ騒いでいたのか人口爆発。

 と、つまり私は、ある日ふとこういうことを考えて、それから上のコラムを思い出し、コラム筆者と同じ(かどうかはわからないが、私が推定したのと同じ)誤りに陥っていることに気がついたのであった。つまり、警告する口が違うのである。ある人は、人口爆発による食料や飲料水の不足、資源の枯渇の危機を述べている。またある人は、少子化による社会の活力や競争力の低下を懸念している。立場も違うし、危険の性質も違う。たぶん人も違う。矛盾はしていない。異なる二つの立場があるだけである。

 社会の行く末について、さまざまな情報や仮定をもとに将来を予測し、警告を発し、よりよい未来に向けた提言を行うのは、科学者の責務の一つである。地球温暖化の問題にもそういうところがあるが、仮説のとり方にも様々あり、どれがもっともらしいかについては立場の問題もあったりする。結局、いろんな人がいろんなことを言うわけだが、「矛盾したことを言っているんだからどっちもたいしたことじゃないや」と大づかみに思ってしまわないで、本当はどういうことを言っているのか、ということを冷静に判断して、自分の行く末に関して考えてみるというのが我々のあるべき態度であり、またマスコミ等にも求められる編集方針なのかもしれない(「いちいち深刻に受け止める」という意味では、確かにそうしているように見えるが)。

 ここにはまだ明かせないある事情でもって、私は最近よく上のようなことを考えている。いつかこの件に関してもここに書ける日がやってくるとは思うが、とりあえず、今のところはまだ、こっちのほとぼりには熱くて触れない。


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