四次元の回廊

 現存する種のうち、人間にもっとも近い親戚筋であるチンパンジーは、一説によれば500万年くらい前に我々の祖先と袂を分かったらしい。言いかえると、今から500万年前には、人間の祖先でもあり、チンパンジーの祖先でもあるイキモノが生きていたことになる。500万年というのはなかなか想像しがたい長さだが、これを分かりやすくするために、一世代20年として、25万世代前、という計算をすることもできる。

 今、東京駅の東北新幹線のホームに立って、母親と手を繋ごう。母親はその母親(私の祖母)と手を繋ぎ、祖母はその母親(私の曾祖母)と手を繋ぐ。私個人については、もうこの「母方の曾祖母」は顔を知らない人になるのだが、さらにさかのぼっても、母には必ずその母がいる。いないはずはない。そこでこうやって、この先もずっと、母がその母と手を繋ぎ、このつながりをずんずん続けてゆき、ついに人間の鎖の長さを25万世代ぶん作ると、その長さは250キロメートルということになる(ひとりにつき1メートルの幅として)。これは、福島県の郡山よりちょっと先、二本松くらいまでしか届かない。「やまびこ」なら一時間半、福島市にたどり着く前に、お母さんのお母さんのお母さんの……は、チンパンジー(の祖先)とも手を握っていることになる。福島県に立っている彼女は、たぶんかなりさるっぽいひとだと思う。

 と、こういう論法はよくあって、とりたてて目新しいものでもないのだが、上の説明の威力が「時間を空間に置き換える」というところにあるのは間違いない。時間という、なかなかイメージできないものを、空間というよく見知ったものに置き換えているわけだ。考えてみると、歴史の「年表」もその類である。遠い過去から現代にわたって、起こった出来事とその前後関係を図表で示したもので、過去と未来という時間が右と左という空間に置き換えられている。ただ、惜しむらくは歴史の教科書に載っているアレは、最近になるほど詳細に書き込まれている一方、昔のほうはかなり大雑把で、結果として年表の長さと年数が比例しないものが一般的だ。最近になるほど紙幅1センチあたりの年数が少ないようになっている。

 よく思うのだが、上の事情は無理からぬこととはいえ、たまには歴史の全年代について同じ「縮尺」で書いた年表も見てみたい気がする。よくある普通の年表は、地図に例えると、アメリカやヨーロッパ、日本などの大都市周辺を拡大する一方で、大洋や砂漠、両極地方を狭く書いてある地図に相当する。そういうのも必要だろうが、全体を正確な縮尺で描いた、世界地図や地球儀だって必要だと思われないか。現在中心主義反対。

 さて、上のチンパンジーの話で使った時間−空間換算定数は、20年=1メートルである。これは一世代ごとに手を繋ぐというイメージ作りのために導入した勝手な尺度で、四千年が200メートルに収まってしまうというものである(だから、日本史の年表は東京駅のホームにぜんぶ載ってしまうだろう。そう思うと福島は遠い)。しかし、こうでなければならないわけではない。説明のためにはいくらでも使い勝手のよい縮尺を使えばよいのだが、物理学的に筋の通った換算定数は、光速度cであると決まっている。

 どうしてそうなのか、なぜここでcたらいう文字が入ってこなければならないのか、まじめに説明しだすと長くなるのだが、合コンの席などで説明するハメになったようなときには、いやそんな機会はあまりないと思うがとにかく、昔、アインシュタインという偉い人がいて、そう発見したのである、とでも言っておけば真実とそんなにかけ離れてはいない。とにかく、時間を空間に置き換えるという作業において、物理学的にはこれ以外の換算定数にはあまり意味を見出せない。「現尺」はあくまで換算定数にcを使った場合のみであり、他の、上のチンパン例のごときはすべて縮尺を用いた地図のようなものだということもできる。cは速度(距離/時間)なので、時間にcを掛けると距離になるわけだ。cは秒速30万キロメートルである。

 しかし、アインシュタインには失礼だが、秒速30万キロメートルとはなかなか穏やかではない。つまり、一秒が30万キロメートルに換算されるということだが、これを使うと一年は一光年、500万年前なら500万光年のかなた、これはもう銀河系の外、アンドロメダよりも遠くて、局部銀河群の外ということになってしまうのである。これは、説明としては使い物にならない。わからないものでわからないものを説明したってわからないのだ。これは物理学がちっとも人間的でないという一つのあらわれと見ることもできるが、とにかくこのことから次のことが想像される。すなわち、

「一年間過去か未来に移動するタイムマシンがあったとすると、その一年分の移動は、空間内を一光年移動するのと同じくらいタイヘンに違いない」

 つまり、仮に「タイムトンネル」のような発明品が完成したとして、それはたぶん、一年タイムトラベルするために一光年歩くことになる代物だろう、ということが言いたいわけだ。一光年というのは9.46×1012km、つまり九兆四千六百億キロメートルという距離であって、なるほど移動するのはちょっと難しい。なにぶんこれは徒歩で移動すると二億年くらいかかる距離である。電車に乗り換えても一千万年くらいかかる。これはなんだか困ったことだが、現実はこういうものと考えるのが、一番理にかなっていると思う(タイムマシン自体が理にかなっていないという考え方もあるだろうが)。

 我々が生きてきた歴史の、時間軸を、ぐるっとこう「回し」て、空間上にのべるとする。振り返ると、ずーっと自分の姿が少しずつ若く小さくなりつつ続いていて、どこかで母親の体の中に入る。その母親も、だんだん遠くなるにつれ、小さくなって、祖母の体の中に戻り、胎児になって消滅する。そういう「目に見える系図(ないし進化系統図)」的な図式だが、物理学的に正直にこの図を作るなら、私が母親と出会えるのは34光年のかなた、ふたご座のポルックスくらいの距離の他の星系でのことになるだろう。三歳になる私の娘でさえ、母親と別れたのはアルファ・ケンタウリよりもちょっと近いくらいの距離になってしまう。

 もちろん現実には、時間は空間とは明らかに違うので、だからアインシュタインの換算定数のことはとりあえずうっちゃっておけば日々の生活には何の不都合もないのだが、我々の体は、空間方向より時間方向に長く、それもうんと長いようにできてて、これは不思議なことだと思う。歴史家はたいへんである。時間の地図作りは、容易なことではない。


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