尤度のマナー

 作法、マナー、エチケットといったものは、理不尽なようでいて、聞いてみるとなるほどという、ちゃんとした理由があるものが少なくない。まったく何の合理的理由もなく、バカボンのパパだからパパなのだ、というものもあるが、少なくともマナーとして成立した当初は何らかの、多数を納得させうる意味があったものが多いはずだ。

 たとえば食事のとき、目上の人と一緒に食卓を囲む場合、目上の人を上座に据える、ということをする。上座は一般に入り口から遠い、奥の席だが、これにはたぶん「入り口に近いほうがいろいろと面倒が多い」という理由があるに違いない。下座に座る人は、追加の酒肴を頼むなど雑用をしなければならなかったり、入り口が近くて寒かったり、それとももしかして「いきなり入ってきた暴漢に真っ先に背中からばさっとやられる役」だったりするかもしれない。もてなすべき客にそういうことをさせるわけにはいかなくて、つまりはそれを防ぐための席順だと思う。

 マナーを覚える場合に、席順にはこういう理由があるのです、というふうな説明と組み合わせて覚える場合も多いと思うが、本来、成文化された作法を学ぶという作業は、深い意味に思いを馳せることなしに、自然に、もっと言えば自動的に出てくるところを目標としたものだと思う。それは、一つにはやはり成立にあたって何の深い意味もないマナーが存在するからだろうし、もう一つは人生、自分の行動の詳細がどういう影響を及ぼすものか、そうそう考えてはいられないものだからである。礼儀作法とは思考の節約である、と言えるかもしれない。

 だから逆に、現存する一連の作法に関して、「尤(もっとも)」という字を使って「尤度(ゆうど)」という量を与え、評価することができるだろう。あるマナーが成立した理由が、ちょっと考えるだけで誰でもすぐわかるもの、すなわち「もっともらしさ」が高いものほど「尤度の高いマナー」と言える。反対に、説明されても納得いかないもの、合理的理由のないものは「尤度の低いマナー」となるだろう。

 たとえば「箸をご飯の上につきたてる」は、宗教的理由から私は断じてやらないことだが、実用上どうかといわれると特に問題なさそう(お茶碗がひっくり返りやすい、というのが考えられなくはないが)で「尤度の低いマナー」である。「たぐり箸(箸を使って器を自分のほうに引き寄せる)」のようなものと比べても、箸を突き立てることが許されている他の文化、というものは、あっておかしくない。

 さて、以前から何度か書いているが、私が今住んでいる水戸の人間は、残念なことに、電車やエレベーターの乗車マナーにおいてたいへん洗練されていない印象を受ける。要するに「降りる人が済んでから乗る」というだけのことなのだが、私が電車を降りようとしたら、開いたドアの前に壁のように人がかたまっていて、かつドアが開くと同時にこっちに向かって飢狼のように飛び乗ってくる、などということを日常として経験すると、なにかこう、うまく言えないが、けしからんロウゼキ者め、という軽蔑心がむくむくと湧きあがってくるのを押さえきれない。

 つまりこの「降りる人が先」というルールは水戸辺りの人にとって尤度が低いのだろう。人口密度の高いところで暮らす人々には、他人と衝突しないよう暮らして行くためのルールが必要で、だからこのマナーの尤度は高い。それは「早く座席に座りたい」という自然な衝動に打ち勝つほどである。ところがこの同じマナーは、衝突するほど多数の人が住んでいない地方では尤度が低くてあたりまえなのだ。それでも「降りる人が先」のほうがスムーズだとは思うし、乱暴に乗り込んでくる人にぐいぐい押されながらこここ、この田舎者め、と心の中で毒づいて精神の平衡を取り戻すくらいのことは許して欲しいと思うが、しかし、理解はできると思う。

 それに比べれば上座下座のルールは比較的尤度が高い。席順でもっとも単純な場合というと、たとえば、喫茶店などで二人用のテーブルがよくある。壁際に長いソファが作りつけてあって、その前に小さなテーブルがいくつか並べられている。ソファの反対側には、テーブル一つにつき椅子も一脚配置されていて、ソファと椅子に一人ずつが腰掛けてテーブルを二人で使う。多人数のときはテーブルと椅子を移動させると、すぐ四人用の席になるという、そういう配置だ。

 タクシーの後部座席の左右どちらが上座か、とか、中華料理の丸テーブルのどこが上座か、などということになると尤度も低くてなかなか覚えられないのだが、上の喫茶店の場合の上座下座は明らかだ。仮に何の制限もなかったら自分はどちらに座りたいのか考えてみればよくて、これはもう、ソファが上座、椅子が下座ということになる。たまに椅子のほうが好き、という人もいると思うが、そういう人でも、世の中の大多数は壁か窓を背にして座るほうを好む、とは認識していると思う。

 ところがどうも、変なのである。最近、水戸に「内原イオン」という、要塞みたいに巨大なショッピングモールができた。延々と続く田園風景に突如として巨大な建造物が現れる、という風情だが、とにかく人をたくさん集めている。話題にしたいのはその、モール内にたくさん入っているレストランの一つ、ちょっとおしゃれなスパゲティ屋さんである。私にとっては久しぶりに入った、若者が好みそうな喫茶店兼レストランだ。そこで見たのだが、どうやら水戸のカップルは、男が壁際に座る、という不文律があるらしいのだ。

 これはいちおう観察事実である。といっても、そのレストランに三時間粘って合計七八組のカップルを調べた、なあんてことはないのだが、私たちが入って食べ終わるまでに店内にいた、六組の若い男女が、それぞれ二人掛けのテーブルで食事をしていて、例外なく「男がソファ側」という配置だったのである。

 いや、自分の小さなウツワでもって理解できないからといって突き放すのはよくない。知らない間に男女同権が進んでいて、デートのときは男は女を優先すべき、という意識が最近はもうすっかり古いのかもしれない。観察数も少ないのであって、水戸に六組しかいない「ヘンなカップル」がたまたまそのとき内原イオンに大集合していたのかもしれない。さらに考えれば「ソファの材質が悪くてちくちくする」というようなもっともな理由があった可能性もある。

 しかし、こうも言えるのではないか。「奥が上座」というのは、私が思うほど尤度の高いマナー(という言い方はこの場合大げさだが)ではないのかもしれない。尤度は時代により、文化により、変化するのが当然である。そして、世代が移り、また虚礼廃止、合理化が進むにつれ、見直されあるいは単に無視されるマナーというものはあると思うが、それはあまり存在意義に納得がゆかない、尤度が低いマナーに違いないのである。「デートのときは女性が上座」というのは、思ったよりも尤度の低い、あっさりと廃止される類の風習だったのでは。

 これから先、人口が減少し、あるいは定時の労働のために朝夕決まった時間にオフィスに通う、という労働スタイルも多様化してゆき、あるいは単に交通機関がさらなる発達をすることによって、都心においてさえも少しずつ電車内の混雑は緩和されてゆくことだろう。たぶんそうなると思うのだが、そうなったときに「降りる人が先」というマナーは果たして維持されているだろうか。維持されていなければそれはそれで幸福な社会であると言えなくはないと思うが、老人にとって最も幸福な世界は、自分の価値観がずっとそのまま保たれている社会であるという気もする。しかし今回、あれこれ書いたが、要するに単に水戸の人が変なのであって、自分が時代とずれ始めているのではない、と信じたいがどうなのだろう。


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