人生を夢に捧げること

 なぜそういうことを考えてみるのか、有体に言って暇なのか、と問われると答えに窮するが、日常生活においてまったく必要のないことを考える楽しさというものは、確かにあると思う。現実性がないという観点では、「月面における人類の生活」とか「魔法が使える世界における犬の気持ち」は、確かに考えるに値する問題ではない。しかし、突飛な仮定を一つ、あとは誠実な態度を決して崩すことなく作劇に挑むという、それがSFというものであり、そこで「そんなのありえないじゃん」と切って捨ててしまっては人生単純になりすぎはしないだろうか。いやそんな偉そうなものではない。というのも、今回考えた問題というのが「子供にミュージシャンになりたいと言われたらどうするか」というものだからだ。ぜんぜんSFではない。

 いや、そうとも言い切れない。現実問題として、自分の子供に「おれ大学をやめてギターで食べていこうと思う」と告げられることは、実は社会においてそんなに頻繁にあることではない気がする。そのうえ、どう考えても、今考えておかなければならないようなことではない。私の子供はまだ就学前で「サー・トップハムハット」でさえちゃんと言えない発達段階にあるのだ。その意味において月面云々と同じことだと言える、ような気もする。

 さてギターだ。あなたの息子(あるいは娘)、大学に通うために下宿している子供が、あるとき里帰りする。見れば、手に見慣れない楽器を持っている。バイトして買ったのだと言う。そうして、あなたに将来の夢を打ち明けるのだ。実は拙は音楽で生きて行きたいという希望を持っております。つきましては大学をやめたいと思うのだがお父さんいかが思われますかと。反対された場合縁を切る用意がございますが構いませんでしょうかと。

 まず、勝手ながら「認める」「好きにやらせる」というのは、返事の選択肢から除外しておきたい。これは、私が音楽なる夢に価値を認めない人間である、という意味ではなくて、認める場合は問題が簡単になりすぎるからである。いいんじゃない、お前の人生だもの好きにすれば、と言えるならば、問題は単純で、なんの軋轢もない。しかし、それは「地図を四色で塗り分けられるか」と問われて「おれは必要に応じて五色使うからそんな問題はどうでもいい」と言っているようなものである。現実に確かに地図は五色で塗り分けられるし子供は自由にさせるのが選択肢の一つだが、問題として面白みに欠ける感は否めない。

 だからして考えるべき問題は、子供がミュージシャンになりたがっていて、しかも親の気持ちとしては普通の大学に行って普通に就職して欲しいと思っている場合、どうすればよいか、ということになる。自分自身の現実の価値観とはとりあえず別に、上のような親子間の衝突の状況を仮定し、その上で、そういう親として取りうる戦略はいかにあるべきか、思考を積み重ねて結論を出してみようというわけなのである。だんだんSFっぽくなってきたと思われないか。

 私が頭を悩まし、たどり着いた説得法の一つは、音楽の場合、夢を追うことがどんなに辛いことか、ということを説明することである。そもそも、浪人生というのは辛いものだが、一つにはこれは「他のことをする時間がない」という理由がある。休みたいと思ったり、勉強以外になにかやりたいことがあっても、それで試験に落ちては何にもならないので、実際問題として勉強をするしかないのだ。寝ないと頭が働かないから「休息」の時間はあるだろうが、自由に使える時間、「余暇」というものはない。

 普通の仕事をしている場合はそうではない。生活の糧を得るために仕事をしている場合、それは人生の目的ではないので、有給休暇もあり、余暇もある。クビにならない程度にさぼっても何ら恥じるところはない。しかし、夢を追っている場合には有休も余暇もないのである。成功したいと思い、しかもまだ成功していない場合、これは一生続く浪人時代のようなもので、考えるだにしんどいことだ。しかし、夢を追う決意をするというのは、そういうことなのだ。そういう覚悟がなければならないがどうか、と問いたい。

 しかし、考えてみれば、少なくとも志を立てる段階においては、人はみな「どんな労苦も厭わない」「他に好きなことなんてない、これだけに打ち込みたい」と思っているのではないか。実際に始めてみてどうであるかは別にして。そして、実際に始めてみてから「やっぱオレ向いてないや」とわかったとして、しかしそのときにはもう大学はやめちゃっているし、高価なギターが三つも部屋に転がっていてローンはまだまだ残っているのである。それでは手遅れだ。いや人生手遅れと言うことはないが、この思考実験においては完全な敗北だ。そこで、上とは別にもう一つ考えた。それは、ミュージシャンが基本的に「人に認めてもらう」ということが最終目的である仕事である、ということである。

 音楽は、売ろうと思って売れるものではない。どんなに頑張って作った曲でも、買おうと思う人が現れなければ売り物にはならないのである。スポットライトを浴びるのが、どうして私ではなくあの人なのか。あの人は音楽に対する態度も不真面目で、毎日酒ばっかり飲んでいるではないか。そういう類の疑問は、この道においてはおそらく愚問というものだろう。理由などない。努力は十分条件ではない(時に必要条件でさえない)。これは、数字を残せば認めてもらえる(ことが多い)、スポーツの世界よりもう一段厳しい世界である。流した汗はこの場合時に嘘をつく。頑張りを認めてもらいたいなら、他の職業を選ぶべきなのだ。そう説明すれば、よほどの覚悟がないとこの道に飛び込んではいけないのだと、わかってもらえるのではないか。

 どんなものだろう。ざっと以上のような、将来役に立たなさそうな理論武装をこちこちとやって、我ながらけっこうまとまったぞ、と思っていたわけだが、考えてみると、そういうことを自明のこととしてわかっているはずの人々が、それでもなお、俳優や歌手を目指し、あるいは作曲の、もしくは絵の、たぶんもっと多くは文章のセンスを世に問うために、道を志す。つまり、上の事情なんて、本当にその道を目指している人ならみんなわかっていることではないか。だとしたらその人々を駆り立て、さまざまな不利益を覚悟させるものはなにか。もしかして、人間は、自然なありようとして、できるだけ多数の人々に認めてもらうために生きているのではないか。

 本日、私に三人目の子供が生まれた。これで、上の言い訳を使うことになる確率は、少なくとも三倍になったわけで、使わずにすめばよいがと思いつつも、どこかでかれがそうした強烈な欲求を持つ人間であって欲しいと思う気持ちもある。こちこちと家庭を守るこんな父のことは適当にあしらいつつ、はばたけ我が子よ。幸いにして三人姉弟、親のマークはあんまり厳しくないぞ。


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