雑文屋の小人さん

 体が覚えている、というふうに表現するのか、何度も繰り返すうちに手順が自動化されて、ほとんど何も考えなくてもできる動作というものはあるものである。同じ作業を繰り返し行うと上手になってゆくのは、それが熟練というものだから当たり前だが、熟練の果てに、どこかでそれは中枢部分の制御を離れ、下部に新しく作られたより単純な副処理システム、いわば「脳内にいる靴屋の小人さん」に下請けに出されてしまうような、そんなイメージがある。

 たとえば「シャープペンシルのノック」だ。シャープペンシルの芯を繰り出すときに、お尻のところのボタンを指で押すわけだが、私はこれを自分の胸に当てて、かちかちと押す癖があった。シャープペンシル自体、高校生の頃はよく使っていたのに、大学生以降ほとんど使わなくなった筆記用具で、自分にこんな癖があること自体まったく忘れていたのだったが、最近、シャーペンを使う場面があって、文章を書く合間に自分が胸でノックしている、ということを発見したのである。自動的に胸でかちかちやってから、そうそう私は高校生のころこうやってたんだよなあ、と驚きとともに思い出した。一度生まれた小人さんは、かくのごとく、容易に失われるものではない。

 しかしこの、小人さんは便利なばかりではない。どこか、自分なのに自分でない、というところがあって、たとえば、普段考えなしにやっていることを、意識しだすと急にできなくなってしまう、ということがある。タッチタイピングで文章を入力するときがそうで、文章をがちゃがちゃ入力しているうちはよいが「R」のキーはどこ、普段どの指で押しているの、と聞かれると急にあやふやになる。

 あるいはボウリングのときの投げ方だ。ボールをもってレーンに向かい合って、突然、どっちの足から踏み出すか、何歩でリリースするのかが気になりはじめる。わけがわからなくなって、途中で投球を中止せざるを得なくなったり、ものすごくへなちょこな投げ方になったりして場の失笑を買う。そういうところも「靴屋の小人さん」にちょっと似ている。つまり、見られていると仕事ができないわけで、小人さんに十全の働きをしてもらうには、小人さんから目をそらす必要がある。ボウリングの投球なら、投げるときに何も考えないか、それが無理なら今日の昼ご飯はラーメンライスにするかチャーシューメンがいいか等と考えながら投げるほうが、私の場合高得点が得られる気がする。確かそういうゴルフまんがもあった。

 以上は動作に関するものだが、自動化されているという意味では、いわゆる「口癖」というのも、これに近いかもしれない。口癖は恐ろしい。何が恐ろしいといって、他人に指摘されると何もしゃべれなくなってしまわないかという恐怖がある。これは、まとめるわけでもないのに常に「要するに」と話し始めるとか、言葉と言葉の間に「ぁーのぅ」という独特の抑揚をつけた間投詞を挟むとかそういうことで、余談だが後者、普段「ぁーのぅ」とよく言っている人が英語で話しているのを聞いたところ、言葉と言葉の間に「ぅえーる」が奇妙なアクセントで挟み込まれていた。こういうのは言語によらないのだろうか。

 余談さておき、この「要するに」の人も「ぁーのぅ」の人も、普段ラーメンかなにかについて話しているときはこのような口癖が出るわけではない。いや、出なくはないだろうが、それほど顕著ではないと思う。逆に、会議や発表のときなどには頻度が高くなる感じがするのだが、これはたとえば、人前で何か筋道立った意見を述べるというのは、それだけでかなりの程度頭脳に負荷を与えていることになるので、ボウリングをしながらラーメンのことを考えるように、小人さんが出てきやすい場面になるのではないかという仮説は立てられる。

 口癖とは少し違うかもしれないが、文章においても同様の「癖」は存在する。こんな私でもずっと書いているうちに、よく使う表現、よく使う文型というものができるようで、たとえば私の場合「関係ない文章を『が』でつなぐ」とか「同じことを二回言う」がそうだ。直近の679回「高電圧の王座」はフィクションなのでちょっと脇に置くとして、677回「公園の発電機」にある文章をご覧いただきたい。

といっても、一つでもあるのだからそれでよいようなものだが、自分の子供を乗せて回してみると、これが重いのである。

「一つでもあるのだからよい」という前部と、「回してみると重い」という後段がぜんぜん関係ない。逆接にも前置きにも時間的関係にもなっていない。読んでみるとそれほど変に思えないので不思議だが、少なくとも中学のときの国語の先生には叱られそうな気がするのである。もう一つの「同じことを二回言う」のほうは、こちらは678回「若さを失うこと」であるが、

麻薬を注射したあと、使った注射針はきちんと医療廃棄物として処理してね、とか、飲酒運転のときはスピードを控えめにシートベルトも確実に、という啓蒙活動と同じようなむなしさが確かにある。

 似た例えをわざわざ二回書いている。はっきり言ってくどいのだ。こんなものは一回でよい。二つ例を思いついたら、よりすぐってどっちか良いほうを一つだけ残すようにしたらどうなのか。もっと細かいところでは、次のようなものもある。

最近、企業や官公庁からの情報流出に関して「Winny」というソフトがよく報道されているが、これについても、いまさらながら自分は世間にまったくついていけてないと思い知って、かなり悄然としている。言ってはなんだが、テレビや新聞の報道に接して、なるほどそういうことか、と思ってしまうのは、つまりこれは客観的に見て相当遅れているということである。

「企業や官公庁から」「テレビや新聞の」である。だから、一個でよいと言っているではないか。「企業などから」「テレビ等の」と書けばよいのだ。わざわざ同じことを二回ずつ書いて、文章がわかりやすくなるとでも思っているのか。謝れ。特に携帯電話で読んでくださっている人に謝れ。

 こういう悪癖には、もしかして「文体」という言葉を当てていいのかもしれないが、それが私の文体だから、などとうそぶいていると、死んでから閻魔大王の前に引き出されて舌を抜かれそうな予感がするので、指がもげてもタイプすべきではない。とにかく、私のかわりに一部文章を綴っている小人さんの存在に気が付いてしまうと、聴衆にあからさまに「ぁーのぅ」をカウントされているようなもので、ものすごく文章が書きにくくなってしまうのである。まこと、行動の自動化は恐ろしい。

 それでも今回、読み返してみると「関係ない文章を『が』でつなぐ」も「同じことを二度言う」も健在なので、気が付いても自動化が解除されない、かなり強固な習慣になっているということなのかもしれない。私が自分の文章に関して気がついていることとして、ほかには「なにかというとカナにひらく」とか「とりあえず括弧でくくる」とかそういうのがあるが、想像すると恐ろしいのは、自分でも気が付いていない特徴を他人に指摘されるような事態である。あるとき他人に、思いもよらない黒い小人の存在を指摘されたとして、それでも私はまだ同じような文章を書きつづけることができるのだろうか。いやなに、ラーメンのことなどを書いているうちにきれいさっぱり忘れて、何のことはないフツーに書けるような気もするが、なかなか恐ろしくはあるのだった。


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