換算定数の罠

 スローガンにおいて「ストップ・ザ・飲酒運転」とか「ノーモア賃金カット」「増税にNo!」などとあるのを見て、なぜ日本語で書けないのかと考えている。いや、日本語で「飲酒運転に歯止めを」とか「増税は許しません」と書けなくはないし、実際にそう書いてあるのも見かけるので、単なる表現のバリエーションとみなすべきなのかもしれない。引っ掛かりを感じるくらいがいいスローガンだという考え方もあると思うが、なんとなくこなれていない表現のような、そしてなにか高所から物を言われているような気がするのである。嘘だと思ったら、ためしにちょっとおしょうゆ取って、と頼んだ同居人に対して、
「返事はノーだ」
と言ってみると、私の言いたいことが分かってもらえるのではないだろうか。

 英語といえば、以前テレビでみのもんたが「メタボリックシンドローム」という言葉について文句を言っていた。なんでそんなわけのわからない言葉を使うか、日本語で、内臓脂肪による諸症状とかなんとか言えばいいじゃないか、ということである。本当にそのとおりで、責任者はみのもんたに謝罪すべきと思うが、まあ、一つ弁護するとすれば、こういうのは慣れのものである。いったんメタボリックシンドロームで行くと決めた以上、ころころ変えずに貫き通すというのは一つの見識だと思う。また、いずれ近いうちに「メタボリ」というような略語が一般化して、日本語に取り入れられてゆく気もする。

 このメタボリだが、最近のニュースで、現在四十歳以上の男性の二人に一人がメタボリの定義に該当するか、もしくは予備軍(※)である、という報道があった。こういう場合の数字に予備軍を含めるというのはいかにも大げさ神の導きを感じるが、だいたい、メタボリ自体、心筋梗塞などのより深刻な生活習慣病になる恐れがあるという、生活習慣病予備軍的な位置付けである。だからこのメタボリ予備軍というのはつまり生活習慣病予備軍の予備軍、生活習慣病が正規の軍隊とするとメタボリ予備軍は昔軍曹だったじいちゃんが原っぱに子供を集めて竹槍の稽古をしているとか、そういう人々ではないかと思うがどうなのか。そりゃ、そうやって育った子供の中にはやがて正規兵として活躍する子もいるだろうが。

 といっても太りすぎがよくないのは確かだが、生活習慣病自体、より深刻な結果の一歩手前なので、メタボリックシンドロームはその二歩手前、メタボリ予備軍は三歩手前、というふうに考えることもできる。しかし、いまさらっと三歩手前等と書いたが、これはいったいどういうことなのか。考えると難しい。三歩手前は一歩手前に比べて、どれだけ安全なのか。

 これに対して、生活習慣病の罹病率や致死率を調べて回答することも可能なのだが、誰も私にはそういうことを期待しているまいと思うので、別のことを書く。一歩手前だ。よく「事故一歩手前」等と書くが、この一歩は何メートルなのか。実際問題としてどれだけ離れているのか、ということである。

 もちろん、これはものの例えである。実際に道路側に向けて一歩前に進んだら事故に遭っていたとか、そういう状況を示すものではない。しかし、この表現があまりにも多用されているので、一歩というが本当はどのくらいなのか、これを一歩と言っては他の一歩手前にすごく失礼になるのではないか、という一歩手前も存在しているのではないかと思うのである。一歩間違えば大惨事になるところだったかもしれないが、その歩幅はめっちゃ大きいんと違うんけ、ということである。比喩表現に甘えて、そういう定量評価をないがしろにしてはいけない。

 似たような事例に「百歩譲って」という言葉がある。これ自体「一歩譲って」という表現がインフレーションでこうなったような気がするが、この「譲って」は比喩であり主観であり、実際にどの程度譲っているのかは結局表現者の自由であると言える。というより、心の譲り度と歩幅の換算定数がはなっから定量化されていないので、しぶしぶちょっと譲っただけのことを、「千歩譲って」とか「一億歩譲って」とか言いたければいくらでもいえる。まことに実のない表現である。「百歩譲ってこの拾ったアイスの当たり棒がお前のものだったとしてもだ」と言ったりすると、ものすごく歩幅が小さい感じを味わえると思う。

 こうした状況を打破するため、私はここに「一歩手前の換算定数」というものを提起したい。一歩というのは、歩く人にとってひと手間、ひと呼吸の動作である。だから「あのレバーをこっちに倒す代わりにこっちに倒していたら大惨事だった」というのは、立派に「事故一歩手前」と言えると思う。ただ「こっちのボタンを押して安全装置を解除しつつ、こっちのレバーを倒してカバーを押し割り、自分と副長の手首についている鍵をそれぞれ鍵穴に入れて回してしかるがのちに発射ボタンを押し込む」というような状況では「核戦争一歩手前」と言うことはできない。いっぱい手間が残っているからだ。

 アイス棒のごときはどう考えればよいか。金額換算するといいかもしれない。時給六百円で、一時間歩くと六百円もらえる仕事があったとする。一分で八〇メートル、歩幅五〇センチで一六〇歩と考えると、一歩は六銭くらいの価値になる。他人を通してあげるために一歩譲って、あとでまた進むためには二歩分の仕事が必要と考えると、「当たり」と焼印が押してあるアイスの棒(価値は百円)に関しては、八百歩くらい譲っていることに相当するわけだ。「百歩譲って」が、がぜん穏当な表現に思えてくる。

 では、メタボリックシンドローム予備軍は生活習慣病の何歩くらい手前なのか。ウエストが八五センチあって、でも血中脂質も血糖も正常範囲内で、ただちょっと血圧高かった、というような人が上の定義による「メタボリ予備軍」に当てはまるが、この人がこのあと何歩間違うとたとえば脳卒中になるのかということである。よくわからないが、毎日まいにち、誤った方向に飽きもせずのんべんだらりとものすごくたくさん歩かないとそうはならない気がする。だからして、今晩も私は酒を飲むのである。アル中一歩手前かもしれない。


※報道によって「予備軍」と「予備群」という二つの表記があることに気がつきました。予備群では意味が通じない気もするのですが、これも慣れのものかもしれません。
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