ぴょんとジャンプ

 何度も書いているようだが、科学は必ずしも人間を幸せにしない。これが「漫画雑誌」や「政治」「もちきんちゃく」とはわけが違う。考えてみると、こういうものは突き詰めて言えばすべて人間を幸せにするために存在してるわけで、そう思って安心していればいいわけだが、そういうものと科学は違うのである。そういうことだと思う。

 もう少し詳しく書くと、たとえば「猫は人間を幸せにしない」とか「夏は人間を幸せにしない」というのが、科学と似た構図になるのかもしれない。猫はけっこう人間を幸せにしてくれている気がするが、そのために生まれているわけではないのであって、猫が幸せにしてくれなかったからといって猫のせいではない。科学もそうである。

 そういう科学であるが、確かに相対論一つ取っても、この理論の持つ美しさまた自然を説明するその精度とは別に、聞かなければよかった聞かなければもっと幸せだった、と思うことは確かにある。たとえば「どんなに加速しても光の速度を越えられない」というのはどうだろう。アインシュタインの時代、既にSFあるいはSFとは呼ばれなくても宇宙旅行を扱った小説というものはあったろうと思うのだが、その世界にこの一文がもたらした衝撃というのは、かなりのものだったのではなかろうかと思う。ものすごいエンジンをつけた宇宙船に乗った主人公が、どんどん加速して隣の星系、隣の銀河に、というような話が、ヒジョーに書きにくくなってしまったことは間違いない。今さらそんなことを言われても困る、なんていうシリーズもあったりしたのではないだろうか。

 過渡期のSFはともかくとして、いったん相対論を受け入れた後に書くとしたら、なにがそんなに問題になるのか、と思われるかもしれない。確かに、光をの速度を超えられないというのは不便なだけでなくいかにも直感に反していて、光速の99・999999999%、ええと、いまいくつ9を書いたのかわからなくなったが、とにかくしかるべき光速ぎりぎり速度で飛んでいる宇宙船のへさきに立ってぴょんとジャンプすれば、容易に光の速度を越えられそうな感じは、実際今の私にもある。どうしてこれが駄目なのか。学校でも習ったし、どうしてそうなるか、そうでなければならないかもちゃんとわかっているはずなのだが、それとこれとは別なのである。

 なに、論文ではなくてSFだ。虚構を成立させるため、何かの道具を持ってくるのは勝手である。超空間でもワープドライブでも、スクィーズドスペースジャンプでも、名前も原理もいいかげんでよかろう。なにか相対論の裏道を通って、隣の星系までのハイウェイを用意して、いけないわけはあろうか。

 それがあるのである。相対論によると、そしてこれは一般相対論ではなくて特殊相対論の範囲でもうそうなのだが、超光速で飛ぶ手段は、それがどのようなものであれ、必ず時間旅行の手段となりうる。これは実は「宇宙船の舳先でぴょんとジャンプしても光の速度は超えられない」と同じくらい、はっきりとした論理展開で導かれる事実である。光の速度を超えて移動する手段があったとして、それがどういう手段によるものであれ、それを別の速度で移動する別の視点から見ると、出発よりも到着のほうが前の時間になってしまう(ことがある)。 どうしてそうなるかということを説明し始めると昼休みが終わってしまうのでそれはしないのだが、ほんとうに、そういうことになるのだ。

 つまり、物語に超光速で移動する手段を導入するということは、そのまま、その世界にタイムトラベルの可能性を導入するということである。雄大なスケールの星間戦争なんかを描きたかったのに、そこにタイムトラベルなんて入ってきた日には、なにがなんだかわけがわからなくなる。宣戦布告のまえに戦争が終わるとか戦争の原因を取り除きにゆくとか、そういう話を書きたいのであれば別だが、たいていの場合、そこまでの覚悟はなかろうと思う。

 まあ、物語に対して、特にその細かい設定に対して、あまりうるさいことを言うのは、よいことではないとは言える。超光速移動手段を導入した時点で一つ約束を破っているのだから、もう一つ破ったって悪いことはなかろう。ただ、相対論が非常に意地悪なものであるということ、隣の星系までひとっ飛びという無理からぬ夢に対して、周到にそれを禁じるようにできていることは確かなのである。実際問題として、物語において相対性理論の存在に助けられる場面というのはそうは多くない気がするので、どうも、相対論には迷惑ばっかりかけられているような気がするのだった。

 そう、科学は人類を幸せにしない。小説は人類を幸せにするためのものだから、これと科学の間に、矛盾が生じても当然なのだった。科学者が反省すべきなのか、SF小説家が反省すべきなのかと考え始めると、どうなのかわからなくなってしまうけれども。


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