時計を分解する このエントリーを含むはてなブックマーク

 身の回りのあれこれについて「これはこういうものです」と聞くとする。それをただ信じる、という道がまずあると思うが、もう一つ、自分で一度は疑ってみて、本当にそうなのか自分なりに確かめてから納得する方法もある。どちらがよいか。それはもう一般的には後者であるとされている。懐疑主義というべき、科学の基本的な態度の一つである。「自分なりに」のところをもう少し改良して、誰の目から見ても納得できる証拠を再現可能な手順で得、整理し解釈し発表する、というところまで行けば、もうこの人は立派な科学者であると、言ってもいいだろう。偉人はみんなそうやって大きくなった。わからないがたぶんそうだ。

 では、その疑うことが、他人に迷惑をかける場合はどうだろう。たとえば時計。動いている時計というのは、どういう仕組みになっているのかふと気になったとする。親の枕元においてあっていつもこちこちと時間を刻んでいる目覚まし時計だが、これをばらばらにして調査して、元には戻せなくなって、親に大目玉を食らう。

 調査といっても、ここでやっているのはまあ「自分なりの調査」であって、実際「ははあ」と思うくらいのことである。そうでない人もいるかもしれないが、まあたいていは、これをやることで明日から時計職人としてやっていけるような分解のしかたではない。また、時計の構造というものはしかるべき資料をあたれば、実際に分解することなく知ることが、できないではない。突き詰めて言えば、これはやりたいからやっただけである。それでもやはり、この行為はどちらかといえばほめられるべきものであると、みんな思うのではないかと思うがどうだろう(特に、その時計が自分のものではない場合には)。なんとなく、これを怒った場合、二一世紀の日本の歴史からアインシュタインみたいな科学者を一人、失わせることになるような、そんな予感がする。まあたいていは、そういうことはないのだろうが。

 さて、四半世紀ほど昔。私が通った中学の教室の天井には、小さな丸い装置が取り付けられていた。天井の真ん中辺りにぽつんと取り付けてある、白い、直径十二センチ厚さ五センチくらいの、半球形に近い特徴のないかたちをした装置である。各部屋にこれがあるのはなぜか、疑問に思って、あるとき聞いた私に「火災報知器なのだ」という回答をくれたのが、誰だったかは思い出せない。むしろ「おそらく火災報知器なのだろう」と私が考えていただけである可能性もある。ともかく、根拠あやふやながら、火事が起きた場合、この装置がなんらかの原理でそれを検知し、非常ベルを鳴らすのであろうと思われた。

 しかし、本当にそうなのか。私はこれを、疑っていた。俄然疑いの目で見ていた。そもそも、上記の機能を果たすものである場合、配線がついていないというのが、いかにも変な感じがした。この装置は天井の真ん中に、配線もなにもなくぽつんと取り付けてあるのだが、仮にも火災報知器、センサーと通報機能を持つ装置である場合、これに電源を供給しまた異常を示す信号を伝える配線が、ここからどこかに向けて、配線されていなければおかしい。ところが、そういうものは見当たらないのである。たとえば、同じように壁についている校内放送用のスピーカーには、細いケーブルがつながっていて、それが壁にあいた穴に消えている。この線を伝わって「音」がスピーカーにやってくるのだろう。しかし、この報知器(?)には、出口もなければ入り口もないのだ。

 もちろん、実は報知器の背後、報知器を取り外したら見えるはずの天井のその場所には小さな穴が開いており、配線はその穴を通って屋根裏を引き回されているのである、という説明をつけることは可能だ。しかし、故障のときにいかにも面倒なことになりそうな、そんな配線をするというのは、私の目から見ていかにも不自然な感じがした。電源は電池であり通報は無線である、という可能性も確かにあるが、そういう警報の通路が無線というのは、いざというときの信頼性という点で、かなり無理があるのではないか。

 そういうような推理を経て、私は想像していたのである。仮にこれが、噂どおり本当に火災報知器であったとして、その機能はだいぶ前に失われているのではないだろうか。当たり前かもしれないが、学校が火事になったことはなかったので、報知器が威力を発揮したところなど、見たことがない。むしろ、こういう装置があったとして、いざというときにきちんと動作するかどうか、定期的に試験をする必要があると思われるが、その試験は、たとえされているとしても、私はその現場を見たことがなかった。のっぺりした外見からも、たとえば空気を取り入れて空気中の煙の濃度を検知するようなセンサーがついているようではない。教室によっては白いドーム部分の中心がへこんだり、古い建物なので天井を何度か塗りなおしてあるのだが、勢いで白いペンキがべったりと塗られてしまっている装置もあったのである。これは普通、機能を期待されている装置の扱いではない。

 私はあるとき、確かそれは中学二年の夏休みだったと思うが、部活動に出てきた人気のない校舎で、積年の疑問を解決するため、行動に出ることにした。教室の隅にある物入れから、長い柄つきの箒を持ってきた。それを槍のように構えて、天井にある、この装置を、がつん、と突っついたのである。

 どうなったか。警報が鳴った。校舎中に、火災警報が鳴り響いた。

 その後のことはあんまり覚えていない。最初の瞬間、自分がやったことと警報の関連に思い至らず、誰が鳴らしたんだろう、悪いことをする奴がいるなあ、と思ったことは覚えている。そのあと、どうやらやったのは私です、私がやったことが原因ですということを申し出て、そのままで済むはずはなくこってりと油を絞られ、場合によっては親が学校に呼ばれて叱られる、ということがあったはずだが、そこのところは、思い出せないのである。そんなはずはないが、あまり叱られなかったのかもしれない。私自身は、なんとなく、たまたま今回は失敗したが思考のプロセス自体においては自分はほぼ正しかった、と考えていたフシがある。

 私は本当に幸運だったと思うのは、そのころまだインターネットというものがこの世に存在していなかった、ということである。もしも既にあったとすれば、必ずや私はそこにおいて時計を分解したり警報機をつっついたりする代わりに、全国のニュースになるようなことをしでかしていたはずだ、ということである。たとえばどこそこで小学生を殺しますとか、そういう書き込みをして、補導されたりとか、そういうことである。こういうのは試してみなくても結果を想像できるはずだとみんな言うと思うし私もそう思うが、それを言えば天井の警報器をがつんと突き壊したら、どうなるかわかりそうなものではないか。

 なお、もしかして「将来の科学者の芽を摘まないように」という理由であまり叱られなかったとしたら、それは大きな間違いである。今の私は、まあ、ろくなことをしていないからである。


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